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入団拒否率にみるプロ野球(File2:スワローズ編)


本稿はドラフト指名における入団拒否をテーマにプロ野球を分析する。2回目にあたる今回は、セリーグの前年度優勝チームであるヤクルト・スワローズについて書こう。


目次

▲PAGE TOP
かなり長い記事になったので、まず目次を置く。

 ・指名/拒否のリスト
 ・育成選手
 ・データの比較・分析
 ・主な入団拒否者についての解説 ・最後に
 ・次回予告

指名/拒否のリスト

▲INDEX
最初に「指名/拒否」のリストを示す。この球団の名称はサンケイスワローズ(1965年以前)、サンケイアトムズ(1966~68年)、アトムズ(1970~1973)、ヤクルトスワローズ(1974~)と変遷したが、便宜上ひとつの表にまとめた。

なお下記のリストはWikipediaにおける各年のドラフト会議の記事をまとめたものであり、各選手の名前はWikipediaへのリンクになっている。そのためWikipedia側に該当する選手の記事が作成されていれば、別タブで詳細な記事を読めるだろう。

西暦1位指名2位指名3位指名4位指名5位指名6位指名7位指名8位指名9位指名10位以下
1965河本和昭山本寛川上宣緒浜口政信高橋恒夫山田豊彦柿木孟細川昌俊島谷金二
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1966(一次)奥柿幸雄吉江喜一岡田英雄林田俊雄山田勝晴田尻茂敏木村修武上四郎浅野啓司
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1966(二次)加藤俊夫西田暢後藤和昭近藤徹神尾広一
1967中野孝征簾内政雄奥宮種夫高井諭松岡弘横山忠夫山口久仁長野哲飯田光男
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1968藤原真溜池敏隆詫摩和文千藤和久安木祥二山口芳夫千葉博夫篠原政夫村越稔磯部満
1969八重樫幸西井哲夫長井繁夫佐々木辰井原慎一外山義明大矢明彦内田順三生田啓一
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1970山下慶徳三橋豊夫若松勉渡辺進牧重見執行重徳植原修平会田照夫野村茂
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1971杉山重雄榎本直樹尾崎健夫益川満育渡辺孝博安田猛松岡清治尾崎亀重水谷新太
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1972永尾泰憲小田義人上水流洋山口高志鈴木康二水江正臣
1973佐藤博釘谷肇世良賢治生田啓一高泉秀輝
1974永川英植角富士夫浜師勝彦上野貴士青木実三村雅彦
1975杉村繁田村忠義寒川浩司近沢英二芦沢優浜師勝彦
1976酒井圭一梶間健一松崎泰治黒坂幸夫高橋寛吉川盛男
1977柳原隆弘渋井敬一後藤雄一尾花高夫鳥原公二田中毅彦
1978原田末記南秀憲有沢賢持谷松浩之
1979片岡大蔵大川章熊野輝光岩下正明
1980竹本由紀佐々木正宮城弘明高仁秀治
1981宮本賢治加藤誉昭中川明仁小川淳司橋口美利豊順一郎
1982荒木大輔新谷博阿井英二広瀬哲朗上地和彦西沢浩一
1983高野光池山隆寛橋上秀樹桜井伸一加藤正次金敷一美
1984広沢克己秦真司柳田浩一増永祐一大江弘明乱橋幸仁
1985伊東昭光荒井幸雄内山憲一矢野和哉山田勉杉山孝一
1986西岡剛土橋勝征内藤尚行飯田哲也佐々木重鈴木康博
1987長嶋一茂忰田幸也鈴木平池末和隆中西親志城友博
1988川崎憲次岡幸俊笘篠賢治幸田正広関根毅天野武文
1989西村龍次古田敦也黒須陽一押尾健一松元繁広沢好輝
1990岡林洋一小坂勝仁高津臣吾新井潔原英史伊林厚志
1991石井一久西岡洋増田政行津川力高梨利洋鮫島秀旗
1992伊藤智仁住友健人真中満山本樹鈴木浩文古沢淳小倉恒清水千曲
1993山部太斎藤充弘度会博文川畑勇一小橋正佳宇佐美康
1994北川哲也宮本慎也稲葉篤紀吉元伸二
1995三木肇宮出隆自野村克則石井弘寿
1996伊藤彰岩村明憲山崎貴弘小野公誠副島孔太
1997三上真司五十嵐亮大脇浩二大山貴広高橋郁雄
1998石堂克利牧谷宇佐橿渕聡本郷宏樹河端龍高橋一正丹野祐樹丹波幹雄
1999野口祥順藤井秀悟米野智人細見直樹花田真人本間忠
2000平本学鎌田祐哉松谷秀幸坂元弥太畠山和洋
2001石川雅規 梶本勇介内田和也福川将和萩原多賀五十嵐貴志田宗大
2002高井雄平館山昌平泉正義大原秉秀片山文男高橋敏郎吉川昌宏小森孝憲
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2003川島亮 山田裕司青木宣親吉田幸央佐藤賢
2004田中浩康 松岡健一 川本良平上原厚治丸山貴史
2005(社)武内晋一 松井光介高木啓充飯原誉士
2005(高)村中恭兵川端慎吾水野祐希
2006(社)高市俊 西崎聡衣川篤史
2006(高)増渕竜義上田剛史山田弘喜
2007(社)加藤幹典鬼崎裕司岡本秀寛中尾敏浩三輪正義
2007(高)佐藤由規山本斉
2008赤川克紀八木亮祐中村悠平日高亮新田玄気
2009中澤雅人山本哲哉荒木貴裕平井諒松井淳
2010山田哲人七條祐樹西田明央又野知弥久古健太川崎成晃
2011川上竜平木谷良平比屋根渉太田裕哉中根佑二古野正人
2012石山泰稚小川泰弘田川賢吾江村将也星野雄大谷内亮太大場達也
2013杉浦稔大西浦直亨秋吉亮岩橋慶侍児山祐斗藤井亮太
2014竹下真吾風張蓮山川晃司寺田哲也中元勇作土肥寛昌原泉
2015原樹理廣岡大志高橋奎二日隈ジュ山崎晃大渡邉大樹

なお、ドラフト制度の最初期においては、球団の側から一度指名した選手の交渉権を放棄する事例も稀にみられたようだが、これは入団を拒否されたためになされた交渉権放棄と判別が困難であるため、やはり入団拒否として扱っている。
※たとえば2014年に中日は育成1位指名の佐藤雄偉知選手の交渉権を放棄したが、これは「入団拒否の結果として交渉権を放棄」したケースにあたる。
 参考記事: なぜ…中日 育成ドラ1の交渉権を放棄(Sponichi Annex)


凡例は以下のとおり。
凡例
白色指名に応じ入団した選手下線逆指名による入団選手
淡黄色シーズン後に入団した選手灰色 入団を拒否した選手

ドラフト制度の開始当初こそ入団拒否が多かったが、1970年代・80年代にかけて拒否者は次第に減少している。
1990年代以降は一人の拒否者も現れていない。

育成選手

▲INDEX
次に育成指名のリストを示す。
スワローズの育成指名を拒否した選手は2015年現在存在しない。

西暦1位指名2位指名3位指名4位指名5位指名6位指名7位指名8位指名9位指名10位以下
2005
2006伊藤秀範
2007小山田貴
2008ラファエ塚本浩二
2009曲尾マイ麻生知史
2010北野洸貴上野啓輔佐藤貴規
2011徳山武陽金伏ウー
2012
2013
2014中島彰吾
2015

育成指名数は累計で12名(全球団中7位)。
これはおおむね平均的な数である。

育成選手の指名数(2015年までの累計)
巨人   51横浜   14ロッテ   20福岡   42
中日18広島16オリックス8日本ハム0
阪神10ヤクルト12楽天14西武3

データの比較・分析

▲INDEX
過去のドラフト会議でヤクルトに指名された選手の数は育成選手を含めて365人。そのうち入団拒否は56名だった。入団拒否率は15.34%で、新設の楽天をのぞいた11球団のなかで上から3番目にあたる。セリーグでは最も拒否率が高い球団でもある。

ドラフト指名におけるチーム別入団拒否率(2015年まで)          
チーム名指名数拒否数拒否率順位
巨人391369.21%11
中日365359.59%10
阪神3414412.90%5
横浜3504212.00%6
広島3543911.02%9
ヤクルト3655615.34%3
福岡3714311.59%8
日本ハム3554211.83%7
西武3565415.17%2
ロッテ3655916.16%1
オリックス3444914.24%4
近鉄2655119.25%
楽天9400.00%

もっともスワローズは1990年以降、指名選手に入団を拒否されていない。こうした結果になったのはドラフト制度の創設直後の拒否率がかなり高めだったからだ。球団史上もっとも拒否率が高かったのは11人中9人に拒否された1965年で、その拒否率は81.82%に達する。

1966年の第一次ドラフトで11人中10人に入団を拒否された近鉄は、およそ90.9%という拒否率を残した。しかし近鉄は同年の第二次ドラフトで指名した2人を2人とも入団させたため、年度としての拒否率は79.62%にとどまる。結果として当時のサンケイスワローズが残した先述の81.82%という数値は今も年度別に見た拒否率の最大記録となっている。

※入団拒否率の推移:
※画像をクリックすると表の全体を表示する。

参考としてグラフも以下に示す。


なお、翌シーズン後などに遅れて入団した選手(松岡弘・小林国男・青木実)は計算時に拒否者に含めていない。

主な入団拒否者についての解説

▲INDEX
以降の項目では、スワローズへの入団を拒否した主な選手につき、その後の活躍の概略を示す。
また特記すべき事項については私見により多少の解説を加えていく。

河本和昭

▲INDEX
河本選手は1965年の第1回ドラフト会議において当時のサンケイスワローズの1位指名を拒否した選手である。河本選手は亜細亜大に進学し、その後もプロ入りしていない。

この年、他に1位指名を受けながら入団を拒否した選手はいない。河本選手はドラフト1位指名を断った最初の選手であり、入団を拒否した全選手のうち最初に指名された選手でもある。いわば河本選手は指名拒否の第1号として球史に名前を残したといえよう。

内田睦夫

▲INDEX
内田選手は1968年に当時のアトムズの11位指名を受けた選手である。
入団を拒否した後は、日立製作所に就職した。
Wikipedia記事へのリンク:内田睦夫

その後2000年に学校教育法施行規則が改正され、これにょり教員免許がない民間人も公立学校の校長になれるようになったが、内田氏はその民間人校長第一号になった。内田氏は野球選手として球史に名を残すことこそなかったが、日本の教育史には名前を刻んだといえよう。

尾崎健夫

▲INDEX
ジャンボ尾崎こと尾崎将司氏の弟で、通称はジェット尾崎。いわゆる尾崎三兄弟の一人である。
Wikipedia記事へのリンク:尾崎将司 尾崎健夫 尾崎直道

1971年のドラフト会議でヤクルトスワローズの3位指名を拒否して兄と同じゴルフの道に進んだ。プロゴルファーとしてはツアー通算16勝の記録を残している。

島谷金二

▲INDEX
1965年にスワローズの9位指名を断った選手。他球団の指名も二度に渡り拒否した。
拒否回数3回は2位タイの記録である。
Wikipedia記事へのリンク:島谷金二

1968年に入団した中日では主力選手として活躍し、阪急に移籍した1977年にはキャリアハイの打率.325を記録している。右投・右打の三塁手で、通算安打数は1514本。通算打率は.269。

1970年代後半~1980年代前半のスワローズはA・Bクラスを往復していた。1965年に島谷選手を獲得できていれば、この時期に多少は良い戦績を残せていたかも知れない。

浜師勝彦

▲INDEX
やはり指名入団を3回拒否した選手。浜師選手はスワローズによる1973年の3位指名、1974年の6位指名を2回連続で拒否し、そのままプロ入りしなかった。

広瀬哲朗

▲INDEX
1982年にスワローズの4位指名を拒否した選手。守備力に定評のあった選手で1984年に入団した日本ハムではレギュラーとして活躍した。
Wikipedia記事へのリンク:広瀬哲朗

右投・右打の内野手で、通算安打数592、通算打率.261を残した。広瀬氏は日本ハムでは一度も優勝を経験することはできなかった。もしスワローズに入団していれば1990年代前半の黄金時代に日本一を経験できていたかも知れない。

新谷博

▲INDEX
1982年にスワローズの2位指名を拒否し、その後は大学・社会人野球などで活躍した選手。
Wikipedia記事へのリンク:新谷博

実に9年後の1991年になって初めて西武ライオンズに入団したが、27歳になってからの遅い入団にも関わらず通算54勝をあげている。1994年には最優秀防御率のタイトルも獲得。通算防御率は3.64。

新谷投手が1982年の時点でスワローズに入団していれば、低迷期の1980年代から黄金期の1990年代にわたって相当の活躍を残していただろう。

藤沢公也

▲INDEX
プロ野球史上最多の4回にわたる指名拒否をした人物。ヤクルトの指名は1971年に断っている。
Wikipedia記事へのリンク:藤沢公也

ドラフト拒否回数が2回以上の選手
選手名拒否
藤沢公也4回
三浦健二、上杉成行、浜師勝彦、島谷金二、八塚幸三3回
中村裕二、尾形正巳、山本昌樹、樋江井忠臣、樋野和寿、佐々木辰夫、仲子隆司、小島健郎、太田進、佐藤博、根本俊郎、山根政明、田村忠義、野村茂、岡本光、三好行夫、加藤秀司、長野久義、土居靖典、伊達義城、吉田好伸、江川卓、笠間雄二、長嶺俊一、大町定夫、石井吉左衛門2回


1977年に中日に入団し、初年度こそ13勝をあげ最高勝率で新人王を獲得するが、その後は低迷。最終的に27勝35敗の戦績を残し、通算防御率は4.23だった。

新谷投手もそうだが、最初の指名から9年に及ぶ回り道はやはり大きかったのだろう。もうすこし早くプロ入りしていればかなりの結果を残せていたのではないだろうか。

山口高志

▲INDEX
1972年にヤクルトの指名を受けた選手。世界の一流企業なら、定年までコツコツ働けて安定した収入が得られるという理由で松下電器産業(現在のパナソニック)に入社した。2008年のリーマンショック以降は、そのパナソニックでも幾度も大規模なリストラが行われているが、当時は「あの松下が傾くとなどとは夢にも思われていなかった」らしい。
Wikipedia記事へのリンク:山口高志

一度はプロ入りを拒否した山口氏だが、後に1974年のドラフトで阪急から1位指名されたときは入団している。活躍した期間こそ短かったが50勝43敗44セーブの戦績を残し、通算防御率は3.18だった。

山口選手は非常な剛速球投手だったらしい。スピードガンが導入される直前の時代だったため正確な速度はわからないが、全盛期の球速については多くの証言が残っている。真偽は不明だが日本プロ野球史上最も速い球を投げた投手と呼ぶものさえいる。
Wikipedia記事へのリンク:スピード測定器

1973年のヤクルトは4位ながら首位巨人とは4.5ゲーム差であった。もし山口氏の入団によりヤクルトの戦力が底上げされていれば、あるいはこのシーズン首位に届きV9の達成を阻止していたかも知れない。
Wikipedia記事へのリンク:V9時代 1973年の野球

黒須陽一郎

▲INDEX
1989年にスワローズの3位指名を受けた選手。拒否後は日本興業銀行に就職した。1990年以降26年にわたりスワローズの指名を受けて入団を拒否した選手は現れていないので、彼がヤクルトへの指名入団を拒否した最後の選手でもある。
Wikipedia記事へのリンク:黒須陽一郎

当時のヤクルトのスカウト部長だった片岡宏雄氏は「当初ヤクルトに獲得の意思はなかった。野村監督を説得して同じ立教大学の黒須氏を縁故指名したのに約束を破られた」旨を語っている。片岡氏は「こんな人物をキャプテンにした立教大野球部も悪いのでOB会を退会して縁を切った」とも語っているが、どう考えても野球部自体には責任はないように見える。片岡氏の態度は大人気なかったのではないだろうか。
Wikipedia記事へのリンク:片岡宏雄 野村克也 立教大学硬式野球部

最後に

▲INDEX
スワローズは初年度に河本選手に入団を拒否されたものの、その後は50年にわたりドラフト1位の選手に入団を拒否されていない。セリーグでは最も入団拒否率の高いスワローズではあるが、上位指名の取りこぼしはあまりない。ドラフトの場ではおおむね戦力はきちんと確保できていたといえるだろう。

次回予告

▲INDEX
次は前年度パリーグ2位の日本ハムについての記事を作成する予定だ。なお拒否率の集計に使用したエクセルのファイルは、このリンクからダウンロードできる。もし必要ならば利用していただきたい。
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