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入団拒否率にみるプロ野球(File3:ファイターズ編)


本稿はドラフト指名に対する入団拒否をテーマにプロ野球を分析する記事である。3回目にあたる今回は、前年度パリーグ2位の北海道日本ハムファイターズについて書く。


目次

▲PAGE TOP
かなり長い記事になったので、まずは目次を置こう。

 ・指名/拒否のリスト
 ・育成選手
 ・データの比較・分析
 ・主な入団拒否者についての解説 ・最後に
 ・次回予告

指名/拒否のリスト

▲INDEX
まず指名/拒否のリストを示す。この球団の名称は東映フライヤーズ(1965年以前)日拓ホームフライヤーズ(1973)日本ハムファイターズ(1973~2003)北海道日本ハムファイターズ(2003~)と変遷しているが、リストは便宜上一つの表にまとめてある。

なお下記のリストは各年のドラフトに関するWikipediaの記事をまとめたものであり、前回までのエントリーと同様に選手名はWikipediaへのリンクになっている。

なお、日拓ホームは1973年に球団を買収したが、その年のドラフトが始まる直前に球団を売却した。そのため日拓ホームフライヤーズの名称では一度もドラフト会議に参加していない

西暦1位指名2位指名3位指名4位指名5位指名6位指名7位指名8位指名9位指名10位以下
1965森安敏明広畑良次浜口春好三田晃阪本敏三遠山明落合勤一米沢武
1966(一次)桜井憲島谷金二久保陽二加藤秀司千葉剛笠原弘道尾関洋司井上弘昭末永幸士
1966(二次)高橋善正大下剛史里見忠士
1967吉田誠二宮忠士高橋直樹水野明石井輝比末永吉幸後原富田中達生川崎義通
展開する
1968大橋穣加藤譲司宮本孝男金田留広中原勝利小山田健佐藤正治今野俊男伊達義城
展開する
1969片岡建中原勇渡辺弘基岩崎清隆猿渡寛茂岡持和彦瓜生秀文大橋功男荒船洋資
1970杉田久雄井上圭一江俣治夫船田政雄皆川康夫日高晶彦大沢勉佐々木恭
1971横山晴久保坂英二平井信司宇田東植内正英鎌野裕千藤三樹山下茂之野村茂
1972新美敏三浦政基相本和則江田幸一池田善吾新屋晃
1973鵜飼克雄島津佳一内藤博村井英司竹口幸紀
1974菅野光夫川原昭二吉武正成木村聖一柿崎幸男中野晴彦
1975福島秀喜行沢久隆中村武義鍵谷康司中山信博宮本好宣
1976黒田真二藤沢公也末次秀樹大宮龍男柿田登下田充利
1977石井邦彦古屋英夫山本桂川本智徳土居靖典田村藤夫
1978高代延博工藤幹夫井上晃二国沢道雄
1979木田勇高橋正巳松本信二長瀬正弘
1980高山郁夫金城博和木村孝清水信明
1981田中幸雄中原朝日中村稔小田英明作田栄和福島重男
1982田中富生佐藤誠一二村忠美本間立彦尾鼻晃吉長谷川達
1983白井一幸田中学津野浩野村裕二斉藤満高橋功一
1984河野博文西村基史早川和夫山蔭徳法森範行丑山努
1985広瀬哲朗渡辺弘田中幸雄沖泰司水沢正浩大内実
1986西崎幸広筒井孝名洗将之南出仁川村正太広野准一
1987武田一浩小川浩一藤島誠剛五十嵐明平良吉照芝草宇宙
1988中島輝士鈴木慶裕川名慎一上岡良一難波幸治矢作公一
1989酒井光次岩本勉中山大輔舟山恭史宮川晃有倉雅史
1990住吉義則石本努小島善博南竜次小牧雄一真栄喜正
1991上田佳範片岡篤史徳田吉成島崎毅仲光秀記根本隆輝金子貴博高野慎哉
1992山原和敏松田慎司今関勝田口昌徳西浦克拓
1993関根裕之井出竜也金子誠大貝恭史中山光久
1994金村秀雄厚沢和幸桜井幸博島田一輝城石憲之
1995中村豊荒井修光沼田浩黒木純司平松省二箕田卓哉中西有希
1996矢野諭今井圭吾小笠原道生駒雅紀高橋憲幸村上真哉高橋信二林田堅吾
1997清水章夫小田智之原田健二飯山裕志古城茂幸日里正義
1998實松一成建山義紀立石尚行森本稀哲阿久根鋼伊藤剛
1999正田樹田中賢介吉崎勝佐々木貴藤崎大輔神島崇遠藤良平
2000井場友和木元邦之加藤竜人中村隼人山地隆駒居鉄平田中聡
2001江尻慎太 山口弘佑佐藤吉宏野中信吾富樫和大山田憲村西辰彦
2002尾崎匡哉鎌倉健武田久小谷野栄紺田敏正池田剛基鶴岡慎也
2003糸井嘉男 須永英輝押本健彦稲田直人金森敬之渡部龍一
2004ダルビッ橋本義隆マイケル市川卓菊地和正中村渉鵜久森淳工藤隆人
2005(社)八木智哉 川島慶三武田勝小山桂司高口隆行星野八千
2005(高)陽仲壽木下達生今成亮太
2006(社)宮本賢 糸数敬作長野久義山本一徳金子洋平今浪隆博内山雄介
2006(高)吉川光夫植村祐介ダース・
2007(社)多田野数宮西尚生村田和哉
2007(高)中田翔津田大樹大平成一松山傑豊島明好浅沼寿紀
2008大野奨太榊原諒矢貫俊之土屋健二中島卓也杉谷拳士谷元圭介
2009中村勝大塚豊加藤政義運天ジョ増井浩俊荒張裕司
2010斎藤佑樹西川遥輝乾真大榎下陽大谷口雄也齊藤勝
2011菅野智之松本剛石川慎吾近藤健介森内壽春上沢直之大嶋匠
2012大谷翔平森本龍弥鍵谷陽平宇佐美塁新垣勇人屋宜照悟河野秀数
2013渡邉諒浦野博司岡大海高梨裕稔金平将至白村明弘岸里亮佑石川亮
2014有原航平清水優心淺間大基石川直也瀬川隼郎立田将太高濱祐仁太田賢吾佐藤正尭
2015上原健太加藤貴之井口和朋平沼翔太田中豊樹横尾俊建吉田侑樹姫野優也

なお、ドラフト制度の黎明期においては球団側から交渉権を放棄する事例も稀にみられたようだが、交渉失敗による放棄と判別できないことからこの場合も入団拒否として扱っている。
※たとえば2014年に中日は育成1位指名の佐藤雄偉知選手の交渉権を放棄したが、これは「入団拒否の結果として交渉権を放棄」したケースである。
 参考記事: なぜ…中日 育成ドラ1の交渉権を放棄(Sponichi Annex)


凡例は以下のとおり。
凡例
白色指名に応じ入団した選手下線逆指名による入団選手
淡黄色シーズン後に入団した選手灰色 入団を拒否した選手

例により1960年代~1970年代は入団拒否が多かったが、80年台以降はほとんどみられなくなってきている。

育成選手

▲INDEX
日本ハムは2015年現在まだ一度も育成指名を行っていない。選手を育てるには実戦経験を積ませることが一番重要であり、育成選手を増やしても出場機会を確保できないので無意味との理由によるものらしい。おそらく巨人や福岡などに比べて資金力に乏しいことも理由の一つであろう。

育成選手の指名数(2015年までの累計)
巨人   51横浜   14ロッテ   20福岡   42
中日18広島16オリックス8日本ハム0
阪神10ヤクルト12楽天14西武3


データの比較・分析

▲INDEX
過去ドラフト会議でファイターズに指名された選手の数は355人。そのうち入団拒否は42名だった。入団拒否率はパ・リーグの球団としては比較的に少ない11.83%で、新設の楽天をのぞいた11球団のなかで下から5番目にあたる。

ドラフト指名におけるチーム別入団拒否率(2015年まで)          
チーム名指名数拒否数拒否率順位
巨人391369.21%11
中日365359.59%10
阪神3414412.90%5
横浜3504212.00%6
広島3543911.02%9
ヤクルト3655615.34%3
福岡3714311.59%8
日本ハム3554211.83%7
西武3565415.17%2
ロッテ3655916.16%1
オリックス3444914.24%4
近鉄2655119.25%
楽天9400.00%

球団史上もっとも拒否率が高かったのは12人中9人に拒否された1966年であり、その拒否率は75%に及ぶ。
特に第一次会議では9人中8人が東映への入団を拒否した。

※入団拒否率の推移:
※画像をクリックすると表の全体を表示する。

参考としてグラフも以下に示す。


なお、翌シーズン後などに遅れて入団した選手(高橋直樹・片岡建)は計算時に拒否者に含めていない。

主な入団拒否者のついての解説

▲INDEX
次に、ファイターズへの入団を拒否した主な選手につき、その後の活躍の概略を示す。
なお特記すべき事項については私見により多少の解説を加えていく。

阪本敏三

▲INDEX
1965年に東映の5位指名を拒否した選手。翌年に5位指名(第2次)を受けて阪急に入団。2年目の1968年からショートに定着し、4年連続でベストナインに選ばれるなどの活躍を残した。1969年には47盗塁をマークし盗塁王にも輝いている
Wikipedia記事へのリンク:阪本敏三

しかし、1971年の日本シリーズ第3戦で阪本選手は手痛い失策を残してしまう。9回裏ツーアウト1、3塁、1点リードでの場面。ショートを守っていた阪本選手は当たりの弱いゴロを止められなかった。長島選手の打った打球はそのままセンターに流れてゆき、これが同点タイムリーになった。
Wikipedia記事へのリンク:長嶋茂雄

エラーこそ記録されなかったが、このプレーは誰がみても疑問符のつくようなものであったらしい。そのプレーの直後に、山田投手は王選手にサヨナラ本塁打を打たれ、チームは逆転負けを喫してしまう。これでシリーズ全体の流れも大きく巨人に傾いた。結局、阪急は4勝1敗で日本一を逃した。
Wikipedia記事へのリンク:山田久志 王貞治

これがいけなかったのかも知れない。翌年、阪本選手はトレードに出された。そして移籍先は他ならぬ東映だった。阪本選手は一度は拒否した東映に結局は入団したわけだ。東映でも阪本選手はレギュラーに定着した。1975年にはプロ野球史上初の指名打者として打席に立っている。

通算1302安打、通算打率.272。後に近鉄にトレードされるまでの4年間で468安打を打った。東映にいた期間こそ短かったが、かなりの貢献をチームに残した選手だったといえよう。

島谷金二

▲INDEX
1966年の第1次ドラフトで東映の2位指名を拒否した選手。この前年と翌年にもそれぞれ入団を拒否しており、累計拒否回数3回は2位タイの記録である。
Wikipedia記事へのリンク:島谷金二

島谷選手は最終的に中日に入団し、サードのレギュラーとして活躍した。1977年に移籍した阪急でも、同年にキャリアハイの打率.325を残すなど相当の活躍を残している。通算安打数は1514。通算打率は.269。

この時代の東映はかなりの低迷を余儀なくされており、1968年から10年連続でBクラス入りしている。もしドラフトで島谷選手を獲得できていれば、この期間の戦績は多少は改善されていたかも知れない。

加藤秀司

▲INDEX
1966年の1次ドラフトで東映の4位指名を受けた選手。翌年には南海の10位指名を再び拒否している。
Wikipedia記事へのリンク:加藤秀司

加藤選手は1968年に阪急の2位指名に応じ球界入り。首位打者を2度、打点王を3度獲るなど活躍した。現役通算2055安打を打って名球界入りし、通算打率.297を残している。

もし加藤選手を獲得できていれば、1970年代の東映の低迷はかなり改善されていただろう。

佐々木恭介

▲INDEX
1970年に東映の第9位指名を拒否した選手。都市対抗野球で活躍し最優秀選手賞(橋戸賞)を受賞したため、翌年のドラフトでは高く評価された。
Wikipedia記事へのリンク:佐々木恭介

1位指名を受けて入団した近鉄では10年間の通算で883安打を残すなど活躍。特にキャリアハイの1978年には打率.354をマークして首位打者を獲得した。生涯通算打率も.283とかなり高い数字を残している。

佐々木選手もまた、もし入団していれば低迷期の戦績がかなり改善されていたのではと思わせる選手である。

藤沢公也

▲INDEX
プロ野球史上最多の4回の入団拒否記録を残した人物。日本ハムへの入団は1976年に拒否している。
Wikipedia記事へのリンク:藤沢公也

ドラフト拒否回数が2回以上の選手
選手名拒否
藤沢公也4回
三浦健二、上杉成行、浜師勝彦、島谷金二、八塚幸三3回
中村裕二、尾形正巳、山本昌樹、樋江井忠臣、樋野和寿、佐々木辰夫、仲子隆司、小島健郎、太田進、佐藤博、根本俊郎、山根政明、田村忠義、野村茂、岡本光、三好行夫、加藤秀司、長野久義、土居靖典、伊達義城、吉田好伸、江川卓、笠間雄二、長嶺俊一、大町定夫、石井吉左衛門2回

藤沢投手は1977年に中日に入団。初年度に13勝をあげて最高勝率で新人賞を獲得したが、その後は思わしい成績を残せかなった。通算成績は27勝35敗に留まり、通算防御率は4.23だった。

なお日本ハムは藤沢選手が入団を承諾した後に、いったん決まった契約金を値切ろうとしたらしい。藤原選手が「誠意がない」と反発し入団を拒否したのも至極当然である。つまり藤沢選手の入団拒否記録ができてしまった理由の一端は、当時の日本ハムのセコい態度にもあるのだ。日本ハムはこの一件で、やや恥ずかしい意味で球史に名前を残してしまったともいえよう。

高山郁夫

▲INDEX
秋田商業高校の高山選手は甲子園大会屈指の好投手だった。しかし3年春の選抜大会、帝京戦に登板していた高山選手の右足に激痛が走った。試合後に診察を受けたところ、親指のつけね付近の骨が砕ける怪我だった。医師は手術が必要であること、手術を行うとそれまでの投球ができなくなる可能性もあることを告げた。
Wikipedia記事へのリンク:高山郁夫

当時、高山選手は西武のスカウトであった根元陸夫氏と面識があった。球界の寝業師のニックネームで知られる人物である。その高山選手の相談を受けた根室氏は「プリンスホテルに入社して手術を受け、リハビリを行うこと」を薦めたらしい。
Wikipedia記事へのリンク:根元陸夫 プリンスホテル硬式野球部

根元氏の「何年でも待つ」との言葉を受けて高山選手は意志を決めたらしい。高山選手はドラフト前に「西武以外から指名を受けた場合はプリンスホテルに入社する」ことを宣言した。

1980年、日本ハムファイターズは1位で高山選手を強行指名した。しかし高山選手は当初の予告どおり入団を拒否した。プリンスホテルに入社した高山選手は、3年にわたる手術・リハビリののち1984年に西武に入団した。

怪我の影響もあって高山選手はプロでは目立った活躍を残せなかった。通算成績は12勝12敗。防御率.516。もし日本ハムに入団していても芳しい成績はおそらく残せなかっただろう。

ただし高山氏はコーチとしては実績を残している。高山氏は2005年からソフトバンクの投手コーチとなり、2007年から一軍のブルペン担当を務めた。この頃のソフトバンクが屈指の投手陣を作りあげたのは高山コーチの手腕によるものだと考えるファンも多い。攝津正投手の先発転向を成功させたのも高山氏だとされている。

ところで、高山選手の入社したプリンスホテルという企業は西武鉄道グループの関連会社だ。
Wikipedia記事へのリンク:プリンスホテル 西武グループ

西武ライオンズは1980年代の後半から黄金時代を迎えた。森監督の時代には9年間で8度の優勝、6度の日本一という記録を残している。しかし、このような常勝球団が作られた一因として「有力選手を関連会社に就職させて囲い込み、ドラフト外でトンネル入団させる」という卑怯千万なやり口があったことは否定できない。
Wikipedia記事へのリンク:森祇晶

埼玉県民でありまた西武ファンである身としては、この球団のことはあまり悪く書きたくはない。しかし、ドラフト制度の趣旨である戦力の均衡を完全に無視したこの方法を擁護することは難しい。球界が健全に運営・維持されていくためには戦力の均衡は非常に重要だからだ。

長野久義

▲INDEX
2006年に日本ハムの1位指名を受けたが入団を拒否した選手。巨人への入団を志望していたため、2年後にロッテの指名を受けたときもやはり入団を拒否している。
Wikipedia記事へのリンク:長野久義

2009年に巨人に入団した長野選手は初年度から打率.288をマークし、毎年3割近い打率をコンスタントに叩き出している。特に2011年には打率.316で首位打者のタイトルを獲得した。直近の2015年こそやや低迷したものの、今年はそれなりの成績に戻ってきているようだ。ファイターズが逃した魚はやはり大きかったと言わざるを得ないだろう。

なお、長野選手の所属していた日本大学の監督が「長野は日本ハムは一番嫌いな球団と話している」と発言し、球団ファンの余計な怒りを買ったことは記憶に新しい。この監督は指導者にしてはあまりにも口の軽すぎる人物である。いい大人なのだからもう少し言葉を選べなかったのだろうか。

菅野智之

▲INDEX
2011年のドラフト会議で日本ハムの1位指名を拒否した選手。当時読売ジャイアンツの監督であった原辰徳氏が伯父であったこともあり当初から巨人入りを強く希望していたらしい。祖父の原貢氏は人権蹂躙との発言をしてまで日本ハムの強行指名を批判した。
Wikipedia記事へのリンク: 菅野智之 原辰徳 原貢

日本ハムのこのような姿勢に対して「選手が志望している球団に行くのを邪魔している」などという理由で批判を浴びせるものもいる。なかには原貢氏のように憲法の職業選択の自由まで持ち出して日本ハムを非難するものまでいる。しかし筆者はこのような非難には非常な疑問を覚える。それは以下のような理由によるものだ。

たしかに選手の自己決定権を第一に考えるならば自由契約に委ねるのが最も望ましいといえる。しかしそのばあい選手はその自由意志で最も好きな球団を選ぶ。多くのばあいは単に最もお金を出してくれる球団を選手は希望するだろう。これでは戦力の均衡など図れるわけがない

戦力の均衡は重要である。球団の運営は入場料収入などに支えられている。スター選手を獲得した球団にはますます人気が集まる。獲得できなかった球団はますます経営が苦しくなる。選手獲得を自由競争のままに任せていたら、富めるものはますます富み、貧しいものはますます貧しくなるだろう。人気低迷に苦しむ弱小球団は、やがて経営そのものが立ち行かなくなる。

戦力の均衡が保たれない状況が長く続けば、やがて弱小球団の倒産を招くだろう。球団が倒産すれば、もちろんリーグそのものが成り立たなくなる。だからこそドラフト指名の制度が設けられたのではなかったか。

そもそも戦力の均衡が図られなければプロ野球選手という職業自体が存在できなくなるのだ。だから職業選択の自由を理由にドラフト指名の制度を非難するのは天に唾を吐きかけるようなものだ。だいたい札束での殴りあいで勝負が決まるリーグなど多くのファンは見たくもないだろう。

むろん筆者は菅野選手を非難するつもりは一切ない。「自分の希望する球団に行きたい」「自分を戦力として最も高く買ってくれる球団に自分を売り込みたい」と思うのは選手として当然のことだからだ。

だが球団の側でも、「自分たちの最も希望する選手を獲得したい」「自分たちが勝つために最も必要な選手を確保したい」と考えるのはそれと同じぐらい当然のことではないだろうか? 菅野選手が非難される謂れがないのと同じくらい、日本ハムにも非難される謂れはない

日本ハムはドラフトにおいて攻めの姿勢をみせる球団だ。強行指名は菅野選手のケースに限られない。日本ハムは指名拒否を覚悟のうえで、最も望む選手を果敢に強行指名する傾向がある。先述した高山選手のときもそうだったし、翌年の大谷選手のときもそうだった。
Wikipedia記事へのリンク:大谷翔平

菅野選手は最も望む球団を志望した。日本ハムは最も望む選手を指名した。ただそれだけのことではないか。

菅野選手は3年で35勝22敗。防御率2.45と優秀な数値を残している。2014年には防御率2.33で最優秀防御率のタイトルも獲得した。むろん日本ハムが獲得していてもエース級の活躍を残していただろう。菅野選手は悪くとも10勝は期待できる投手である。もし菅野投手がいれば首位と6.5ゲーム差だった2014年などはソフトバンク・オリックスを逆転して優勝していた可能性さえある。

日本ハムは菅野選手を獲得することはできなかった。しかし入団拒否を恐れず最強の投手を果敢に指名したことはやはり間違っていなかったのではないか。何よりここで日本ハムが萎縮していたら2012年のドラフトで大谷選手を獲得することはできていなかったのだから。少なくとも筆者はそう考えている。

最後に

▲INDEX
日本ハムは選手獲得において精鋭主義を採る球団である。GMの山田正雄氏が残した一位指名はその年の一番力がある選手である旨の発言も、この精鋭主義を端的に表している。
Wikipedia記事へのリンク:山田正雄

育成選手を全く採ろうとしないのも、この精鋭主義によるものだろう。おそらく球団の資金力が充分でないことも影響しているのだろうが、日本ハムは無駄な選手をあまり取ろうとせず、本当に必要な選手のみを採ろうとする傾向がある。

だからこそファイターズはドラフトでも最強の選手を獲りに行こうとする。できるだけ戦力になる確率の高い選手のみを積極的に採り、限られたコストを少数の選手に集中しようとするのだ。その果敢な姿勢に筆者は非常な好感を持っている。

もちろんこの精鋭主義が裏目に出ることもままある。日本ハムは1987年のドラフトで古田敦也選手の指名を見送った。「古田は鳥目のためナイトゲームは無理」というデマを信じたために指名しなかったのだ。結果的に見れば、この失敗は非常に大きかったとしか言いようがない。
Wikipedia記事へのリンク:古田敦也

この年、古田氏はどの球団の指名も受けなかった。最下位でもいいから指名していれば獲得できた可能性は高かった。「無駄になってもいいからとりあえず採用してみよう」という考え方のできる球団であれば、きっと古田選手を指名し獲得していただろう。

言うまでもなく古田氏は現役時に2097本の安打を打ち、.294の通算打率を残した名捕手である。むろん打撃のみでなく守備力も非常に高かった。盗塁阻止率の日本記録を持っているのはこの古田捕手だ。ヤクルトは1990年代の黄金時代を迎えた。その5度に及ぶリーグ優勝に最も貢献した選手は、他の誰でもないこの古田であろう。1991年には首位打者のタイトルさえ獲得している。まさに日本ハムの逃した最大の魚である。

ただし資金力の乏しい球団が、より潤沢な球団に立ち向かうには精鋭主義は極めて合理的な選択でもある。ファイターズはもとより勝利のために最善の道を模索しているのだろう。そのために有能な選手を採りそこなうことがあっても、それは結果論に過ぎない。

精鋭主義が常に正しいわけではない。むしろ精鋭主義によって埋もれた才能を取り逃がすことも多い。資金が充分にあるのであればできるだけ幅広い戦力を買い集めるのがやはり有利な戦略であろう。しかし精鋭主義をとる球団は、時として潤沢な資金を誇る球団をも打ち倒すことがある。そうしたチームの勝利は見ていて清々しいものがある。

次回予告

▲INDEX
順序に従えば次回は日本ハムとは真逆の戦略を地で行く球団を紹介することになるだろう。次回のエントリーは2015年のセリーグ2位、すなわち読売ジャイアンツについての記事となる予定である。なお、拒否率の集計に使用したエクセルのファイルは、このリンクからダウンロードできる。必要であれば利用して欲しい。
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