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入団拒否率にみるプロ野球(File12:近鉄編)

このエントリーはドラフト会議における指名拒否を主題として書かれた記事の第12回目である。今回は2004年にオリックスに吸収合併された近鉄バファローズについて書く。

目次

▲PAGE TOP
 ・指名/拒否のリスト
 ・データの比較・分析
 ・主な入団拒否者についての解説
 ・終わりに
 ・次回予告

指名/拒否のリスト

▲INDEX
まず指名・拒否のリストを示す。
1962年の改称以来、同球団は近鉄バファローズという名称を使用していたが、1999年からは地域名を冠した大阪近鉄バファローズに変わっている。なお、2004年に同球団はオリックスに吸収されたため、同年以降のドラフトには球団は参加していない。

なお、下記のリストは、例によりWikipediaのドラフトに関係する各年の記事をまとめることによって作成したものである。そのため選手名もWikipediaへのリンクになっている。Wikipedia側で同名の記事が作成されている場合には別タブで詳細な記事を読めるだろう。

西暦1位指名2位指名3位指名4位指名5位指名6位指名7位指名8位指名9位指名10位以下
1965田端謙二鈴木啓示長井繁夫飯田幸夫松原良明田中章渡辺立也得津高宏金子準一
1966(一次)加藤英治高垣義広外山博勝部敬一伊達義城中原勝利高田勇中田勇山田恵一
展開する
1966(二次)門野利治加藤英夫
1967三輪田勝永淵洋三小川亨石井久至松下芳夫川口忠五十嵐英太田進枝松道輝
1968水谷宏川島勝司岡田光雄秋山重雄芝池博明井上重信吉村健二半田実大島太治
展開する
1969太田幸司神部年男西村俊二鈴木香石山一秀佐藤竹秀八塚幸三斎藤英雄辻忠嗣
1970市橋秀彦石渡茂中沢春雄窪田欣也佐野勝稔寺田吉孝高橋幸広小橋英明新井鐘律
1971佐々木恭梨田昌崇橘健治羽田耕一上水流洋平野光泰池谷公二薮内正彦宮本実
1972仲根正広有田修三井本隆吉田昌義伊藤文比佐々木正高木孝治
1973栗橋茂有田二三上林成行藤沢公也酒井増夫太田清春
1974福井保夫村田辰美落合登吹石徳一谷宏明田野茂樹
1975中野英明尾西和夫兼光保明林正広山中浩次松尾幸政
1976久保康生石原修治應武篤良渡辺麿史山本和範市川和正
1977金光興二山口哲治佐野クリ野田雲平香川正人村上良次
1978登記欣也森脇浩司金山晃士谷崎浩二
1979藤原保行光井正和山村達也銚子利夫
1980石本貴昭大石大二花房健依田栄二
1981金村義明小山昌男加藤正次篠崎宏道中馬賢治住友一哉
1982加藤哲郎谷真一佐藤純一中島裕司豊原豊古久保健
1983小野和義吉井理人村上隆行光山英和安達俊也近藤章仁
1984佐々木修吉田剛山崎慎太山下和彦鈴木貴久田崎正明
1985桧山泰浩山田真実福島明弘池上誠一福地経人吉川啓一
1986阿波野秀中村良二真喜志康中藤義雄杉本拓也大村慎次
1987高柳出己野林大樹藤原清景松久保新長岡学木下文信
1988米崎薫臣中根仁田口茂樹赤堀元之桑認太田暁
1989野茂英雄畑山俊二石井浩郎藤立次郎平江巌入来智
1990寺前正雄水口栄二佐野重樹柴田佳主伊藤栄祐宮下典明
1991高村祐江坂政明品田操士中村紀洋背尾伊洋森山一人上山勲
1992小池秀郎吉田道内匠政博衣川幸夫大島公一渕脇芳行久保充広
1993酒井弘樹西川慎一大村直之的山哲也善村一仁
1994田中宏和中川隆治南真一郎川口憲史
1995福留孝介岡本晃武藤孝司倉本慎也平下晃司
1996前川克彦大塚晶文礒部公一中濱裕之斎藤義典大久保秀岩村敬士
1997真木将樹高須洋介森谷昭仁吉川元浩田中祐貴代田建紀高塚信幸
1998宇高伸次藤井彰人山崎浩司面出哲志藤崎紘範松本拓也松比良平吉田好太
1999宮本大輔高木康成前田忠節山下勝己岩隈久志鷹野史寿覚前昌也奈良将史吉川勝成
2000山本省吾愛敬尚史近澤昌志阿部真宏牧田明久金谷剛
2001朝井秀樹有銘兼久谷口悦司三木仁佐藤和宏近藤一樹長坂健治
2002坂口智隆筧裕次郎阿部健太宇都格横山徹也大西宏明下山真二井戸伸年
2003香月良太 吉良俊則坂克彦新里賢中本和希栗田雄介

凡例は以下のとおりである。
凡例
白色指名に応じ入団した選手下線逆指名による入団選手
淡黄色シーズン後に入団した選手灰色入団を拒否した選手

なお、ドラフト制度の最初期には、指名した選手の交渉権を球団の側から放棄する例も少なくなかったそうだ。しかし、こうしたケースは入団を拒否されたためになされた交渉権放棄と区別することが難しい。そこでこの記事では、やむをえずこういった事例も入団拒否として扱っている。
※たとえば2014年に中日は育成1位指名の佐藤雄偉知選手の交渉権を放棄したが、これは「入団拒否の結果として交渉権を放棄」したケースである。
 参考記事: なぜ…中日 育成ドラ1の交渉権を放棄(Sponichi Annex)


なお、育成ドラフトの制度が始まったのは2005年以降であるから、近鉄は育成指名を一度も行ってない。

データの比較・分析

▲INDEX
ドラフト会議で近鉄バファローズに指名された選手の数は全部で265人。そのうち入団拒否は51名だった。入団拒否率は19.25%であり、2003年までのデータで比較しても、近鉄の拒否率は12球団中4位とかなり高い水準にある。

ドラフト指名におけるチーム別入団拒否率(2003年まで)          
チーム名指名数拒否数拒否率順位
巨人2653312.45%12
中日2603312.69%11
阪神2554116.92%6
横浜2554116.08%8
広島2673914.61%10
ヤクルト2805620.00%2
福岡2584316.67%7
日本ハム2614015.33%9
西武2715819.49%3
ロッテ2715821.40%1
オリックス2584918.99%5
近鉄2655119.25%4

球団史上もっとも拒否率が高かったのは76.92%を記録した1966年だった。この年のドラフトは1次・2次に分かれていたが、その1次ドラフトで近鉄は11人中10人に入団を拒否された。現在のプロ野球ではおよそありえない珍事といえるだろう。

※入団拒否率の推移:
※画像をクリックすると表の全体を表示する。

参考としてグラフも以下に示す。

なお、例により翌シーズン後などに遅れて入団した選手(佐藤竹秀、渡辺麿史、香川正人、谷崎浩二)は拒否者に含めていない。

主な入団拒否者についての解説

▲INDEX
以下の項目では、バファローズへの入団を拒否した主な選手につき、その後の活躍の概略を示す。
また特記すべき事項については私見により多少の解説を加えていく。

長井繁夫

▲INDEX
1965年に近鉄の3位指名を拒否した選手。
Wikipedia記事へのリンク:長井繁夫

大学卒業後の1969年にヤクルト(アトムズ)の3位指名を受けて入団したが、目だった成績を残すことができないまま1976年に引退。通算安打数は23本、通算打率は.187にとどまっている。

田中章

▲INDEX
右投げの投手。近鉄の4位指名を1965年に拒否している。
Wikipedia記事へのリンク:田中章

1968年に2位指名を受けて巨人に入団し、主に中継ぎとして好投。1971年に西鉄にトレードされてからは中軸選手として活躍。短い期間だが暗黒期のライオンズを支えた名選手だった。

通算成績は36勝36敗9セーブ。通算防御率は3.10。1969年のシーズン、バファローズは2ゲーム差でリーグ優勝を逃したが、もし田中選手の獲得に成功していたら、この年の近鉄は優勝を果たしていたかもしれない。

得津高宏

▲INDEX
左投左打の外野手。1965年に近鉄の6位指名を拒否した。
Wikipedia記事へのリンク:得津高宏

1966年にロッテの6位指名を受けて入団し、以降は準レギュラーとして活躍。1972年頃からは中軸選手としてチームに貢献。現役通算で926安打を放ち、.288の生涯通算打率をマークした。

もし得津選手が1965年の段階でバファローズに入団していれば、土井選手や、小川選手、長淵選手等と熾烈なレギュラー争いを繰り広げていたかもしれない。
Wikipedia記事へのリンク:土井正博 小川亨 永淵洋三

金子準一

▲INDEX
1965年に近鉄の9位指名を拒否した左腕投手。同年にドラフト外で西鉄に入団した(※)。
Wikipedia記事へのリンク:金子準一
※交渉権の放棄がなされた場合には他球団も交渉可能。

1966年に一試合だけ登板し、被安打3、与死球1ながら3回を無失点で切り抜けたが、その後は登板機会がなく、その試合が一軍公式戦での最初で最後の登板となった。

高垣義広

▲INDEX
1966年の一次ドラフトで近鉄の2位指名を拒否した投手。交渉権の放棄後にドラフト外で大洋に入団した。
Wikipedia記事へのリンク:高垣義広

高卒ルーキーながら本格派右腕として期待され、1967年には高卒ルーキーながら9試合に先発登板。1勝1敗、防御率2.79とまずまずの成績を残した。

もっとも1968~71年のシーズンは一軍で目立った活躍は残せず、72年・73年のシーズンこそ救援投手として23試合づつに登板したが、その後は登板機会が減少。最終的にクラウンライター(ライオンズ)にトレードされたが、思わしい成績を残せないまま1978年に引退した。現役通算成績として4勝3敗、通算防御率として4.18という数字を残している。

外山博

▲INDEX
1966年の一次ドラフトで近鉄の3位指名を拒否した右腕投手。
Wikipedia記事へのリンク:外山博

外山投手は近鉄が交渉権を放棄した後、同年にドラフト外で中日に入団した。しかし、1970年に引退するまでの4年間で一軍公式戦で投げたのは対巨人戦のわずか1試合のみであり、その試合も5回を投げて7失点と散々な内容だったらしい。

中原勝利

▲INDEX
1966年に近鉄の6位指名を拒否した内野手。1973年以降の登録名は中原全敏
Wikipedia記事へのリンク:中原全敏

1969年に東映フライヤーズの5位指名を受けて入団し、以降は主に内野を固めるユーティリティプレイヤーとして活躍。1980年に引退するまでの12年間で286安打を放ち、打率.263の記録を残した。

三輪田勝利

▲INDEX
1967年、近鉄の1位指名を拒否した投手。その後1位指名を受けて阪急に入団した。
Wikipedia記事へのリンク:三輪田勝利

当時の阪急は米田投手、梶本投手といった強力な投手陣を擁していたため、三輪田選手は一軍に定着できずにわずか4年で引退した。しかし、現役通算の戦績は4勝0敗、通算防御率は2.31と、かなり優れた数値を残している。もし三輪田氏が近鉄に入団していたら、もっと良い成績を残せていたのではないかと思わざるを得ない。
Wikipedia記事へのリンク:米田哲也 梶本隆夫

なにより近鉄に入団していたら、三輪田氏は阪急(※)のスカウトに就任することはなく、したがって新垣選手の指名を巡る痛ましい事件も起こらなかったのではなかろうか。三輪田氏の自殺後、オリックスの球団社長は記者会見で「球団に責任があったとは思っていない」と発言し大きな非難を浴びた。「所属していたのがこの球団でなければ」と思わせる出来事であった。
Wikipedia記事へのリンク:新垣渚
※阪急ブレーブスはオリックスの前身となる球団である。

川島勝司

▲INDEX
1968年、近鉄バファローズの2位指名を拒否して日本楽器(現ヤマハ)に残留した選手。
Wikipedia記事へのリンク:川島勝司

1971年から三度にわたりヤマハの監督を務めた他、アトランタオリンピックでの日本代表監督も務めた。1999年にはトヨタ自動車の監督就任要請を受けて、これに応じている。今年(2016年)にトヨタ自動車は都市対抗野球で初優勝を果たしたが、このとき川島選手も元監督として毎日新聞にコメントを残している。
参考記事:頂上決戦、OB万感 トヨタV「最高の地域貢献」(毎日新聞)

吉村健二

▲INDEX
1968年、近鉄バファローズの7位指名を拒否した外野手。
Wikipedia記事へのリンク:吉村健二

1972年にドラフト外で太平洋クラブ(ライオンズ)に入団したが、一軍公式戦ではあまり活躍の機会がないまま1974年に引退。通算安打数は2本、通算打率は.400だった。

藤井信行

▲INDEX
1968年、近鉄バファローズの11位指名を拒否した選手。
Wikipedia記事へのリンク:藤井信行

翌1969年にロッテオリオンズの6位指名を受け入団したが、目だった活躍を残せないまま1973年には太平洋クラブ(ライオンズ)に移籍。ライオンズでもやはり結果を残すことができないまま1975年に引退した。通算安打数は34本。通算打率は.198だった。

新井鐘律

▲INDEX
当時甲子園の強豪校であったPL学園で主将をつとめた選手。
在日韓国人の三世であり、当時の本名は朴鐘律だったが、後に日本に帰化して新井宏昌と改名している。
Wikipedia記事へのリンク:新井宏昌
※新井鐘律は1970年当時の通称名

1970年のドラフトで近鉄は新井選手を9位指名したが、実際には最下位指名の新井選手の獲得はあまり重視していなかったらしい。スカウトを挨拶にすら向かわせなかっため、新井選手は指名を拒否して法政大に進学した。

新井選手は1974年に南海の2位指名を受けて入団すると、規定未満ながら打率3割を打つなどルーキーイヤーから活躍。その後も好調・不調の波は大きいながらも一貫して主軸選手として活。1985年には一度は入団を拒否した近鉄に交換トレードで移籍し、コンスタントに三割近い安打を放ってチームに貢献した。特に1987年のシーズンは打率.366をマークして首位打者のタイトルを獲得している。

新井選手は生涯通算で2038安打を放ち、通算打率.291をマークした。1970年代後半~1985年代前半の近鉄はいまいち強豪になりきれない微妙な位置に留まっていた。1970年の段階で新井選手を獲得できていればこの時期のバファローズは、もう少し良い成績を残せていたかもしれない。

上水流洋

▲INDEX
1971年に近鉄の5位指名を拒否した右投手。上水流(かみづる)が苗字、洋(ひろし)が名前である。
Wikipedia記事へのリンク:上水流洋

上水流投手は1972年にヤクルト(アトムズ)の3位指名を受けて入団したが、プロの一軍では思わしい結果を残せず1982年に引退。通算成績は0勝3敗、通算防御率は4.85だった。

池谷公二郎

▲INDEX
1971年に近鉄の7位指名を拒否した投手。苗字は「いけがや」と読む。
Wikipedia記事へのリンク:池谷公二郎

翌72年の都市対抗野球大会での活躍もあり、同年のドラフトでは広島に1位指名された。1976年に20勝をあげ最多勝のタイトルを獲得するなど、広島先発陣の一角として活躍し、現役通算で103勝(84敗)を挙げ、通算防御率は4.13の記録を残している。

なお1977年には48本塁打を浴び、シーズン被本塁打の日本記録を残してしまっている

佐々木正行

▲INDEX
1972年に近鉄の6位指名を拒否した外野手。
Wikipedia記事へのリンク:佐々木正行

社会人野球の大昭和製紙で主軸打者として活躍したことから、1980年に2位指名を受けてヤクルトに入団したが、1軍ではあまり活躍できないまま1983年に自由契約になる。

1984年のシーズンからは日本ハムに移籍したが、やはり目立った活躍を残せないまま1987年に引退した。

藤沢公也

▲INDEX
プロ野球史上最多の4回にわたる指名拒否をした人物。近鉄の4位指名を拒否したのは1973年。
Wikipedia記事へのリンク:藤沢公也

ドラフト拒否回数が2回以上の選手
選手名拒否
藤沢公也4回
三浦健二、上杉成行、浜師勝彦、島谷金二、八塚幸三3回
中村裕二、尾形正巳、山本昌樹、樋江井忠臣、樋野和寿、佐々木辰夫、仲子隆司、小島健郎、太田進、佐藤博、根本俊郎、山根政明、田村忠義、野村茂、岡本光、三好行夫、加藤秀司、長野久義、土居靖典、伊達義城、吉田好伸、江川卓、笠間雄二、長嶺俊一、大町定夫、石井吉左衛門2回

1977年に中日に入団し、初年度に13勝を新人王を獲得。しかし、その後は低迷し、最終的には27勝35敗の戦績にとどまった。通算防御率は4.23。最初の指名から9年に及ぶ回り道はやはり長すぎたのだと思われる。もうすこし早くプロ入りしていればかなりの結果を残せていたのではないのだろうか。

市川和正

▲INDEX
1976年に近鉄の6位指名を拒否した選手。
Wikipedia記事へのリンク:市川和正

東海大卒業後の1980年に4位指名を受けて大洋に入団し、捕手陣の一角を担った。ハーフスイングをごまかす忍者打法などのトリックプレーで人気を博し、球界の詐欺師の愛称で呼ばれた選手でもある。

なお、市川選手は1993年に引退するまでに214安打を放ち、打率.238の記録を残している。

金光興二

▲INDEX
1977年に近鉄の1位指名を拒否した選手。
Wikipedia記事へのリンク:金光興二

広島県広島市の出身で、本人は地元球団であるカープへの入団を希望していたらしいが、金光選手は地元の三菱重工広島に就職し、その後プロ入りすることはなかった。

なお、金光氏はその後、母校である法政大の野球部の監督に就任したが、2013年にパワハラが理由で解任されている。部員130名のうち109名が監督交代を求めたというから、よほど酷かったのだろう。

銚子利夫

▲INDEX
市立銚子高校のエース投手。銚子高校の銚子くんの愛称で呼ばれていた。
Wikipedia記事へのリンク:銚子利夫

1979年に近鉄の4位指名を拒否して法政大に進み、内野手に転向(※)。1982年春季のリーグ戦で首位打者になるなど六大学野球で活躍し、1983年に大洋の1位指名を受けて入団した。
※もともと内野手だったが、高校では一時的に投手に転向していた。

大洋では1988、1989年のシーズンのみレギュラーに定着して活躍したが、その後は清水選手にサードのポジションを奪われ出場機会を失ってしまう。その後、1992年のシーズンからは広島に移籍したが、やはり一軍公式戦では目立った活躍を残すことはできなかった。
Wikipedia記事へのリンク:清水義之

なお、銚子選手は現役通算で278安打を放ち、.256の通算打率をマークしている。

加藤正次

▲INDEX
1981年に近鉄の3位指名を拒否した投手。
1983年に4位指名を受けてヤクルトに入団したが、一軍公式戦には出場できないまま1985年に引退した。
Wikipedia記事へのリンク:加藤正次

福留孝介

▲INDEX
1995年のドラフトで高卒ながら7球団に1位指名された選手。当たりくじを引いた近鉄が交渉権を獲得したものの、当初から「巨人か中日以外ならば社会人野球に行く」と宣言していた福留選手は入団を拒否。後に1998年のドラフトで逆指名制度を利用し中日に入団した。
Wikipedia記事へのリンク:福留孝介

福留選手はメジャーに移籍するまでの9年間で2度の首位打者を獲得するなどチームの主軸として活躍。長打力もあり、打点王も2度獲得している。2008年から挑戦したメジャー・リーグでは期待したほどの成績を残せなかったものの、それでも5年間で通算498安打を放った。

2013年からは阪神タイガースに入団して日本球界に復帰。2013年から2014年の前半にかけてのシーズンは不調のため「高い買い物」と批判を浴びたが、2015年度からは復調。今年は打率.311の好成績を残し、NPBでの通算安打数を1576本まで伸ばしている。
※なお、2016年度までの通算打率は.296。

なお福留選手は年俸の交渉(いわゆる銭闘)を積極的に行う選手としても知られている。仮に1995年の段階で近鉄が福留選手を獲得できていたとしても、球団が高騰する年俸を賄いきれなかった可能性は高い。

実際に近鉄バッファローズは資金難から2005年に解散しているが、もし福留選手が近鉄に在籍していたとすれば、今頃「球団が潰れたのは福留のせい」などの批判を浴び、球団解散の戦犯としてあらぬ汚名を着せられていたかも知れない。近鉄入団を回避して社会人野球に進んだ判断は結局は正しかったのではないだろうか。

斎藤義典

▲INDEX
前橋工業高校のエース投手。1996年に近鉄の5位指名を拒否し、そのままプロ入りしなかった。
その結果、斉藤選手が近鉄のドラフトを拒否した最後の選手となっている。
Wikipedia記事へのリンク:斎藤義典

最後に

▲INDEX
近鉄バファローズは2004年に解散してしまったものの、その球団名は現在のオリックスに受け継がれている。

むろんかつての近鉄ファンには複雑な思いがあるだろう。しかし、球団の再編を巡る経緯には紆余曲折がみられたものの、最終的に球団の空白地であった東北・仙台に新球団が作られる形になったのは悪くない結果になったのではないだろうか。

次回予告

▲INDEX
次回は2015年度のセリーグ最下位であった横浜ベイスターズについて書く。これで近鉄を含む全13球団の記事が揃うことになるので、次のエントリーが一連の記事の最終回ということになるだろう。

なお、拒否率の計算に使用したファイルは例により別サイトにアップロードした。
もし必要であれば、こちらからダウンロードしていただきたい。

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