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入団拒否率にみるプロ野球(File10:中日編)

このエントリーはドラフト会議における指名拒否を主題として書かれた記事の第10回目である。今回は前年度(2015年度)セリーグ5位の中日ドラゴンズについて書く。


目次

▲PAGE TOP
 ・指名/拒否のリスト
 ・育成選手
 ・データの比較・分析
 ・主な入団拒否者についての解説
 ・終わりに
 ・次回予告

指名/拒否のリスト

▲INDEX
例により、まず指名・拒否のリストを示す。
1954年の復称以来、球団の名称は中日ドラゴンズのまま変更されていない。

下記のリストは、例によりWikipediaのドラフトに関係する各年の記事をまとめることによって作成したものである。そのため選手名もWikipediaへのリンクになっている。Wikipedia側で同名の記事が作成されている場合には別タブで詳細な記事を読めるだろう。

西暦1位指名2位指名3位指名4位指名5位指名6位指名7位指名8位指名9位指名10位以下
1965豊永隆盛新宅洋志広野功平松政次平野年明高岡英司小弓場保永江健一仲子隆司
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1966(一次)大場隆広柴田昌邦内野哲朗榎本典久辻正孝大西譲治南山義広高井諭
1966(二次)伊熊博一伊藤久敏井手峻
1967土屋紘江島巧若生和也村上真二皆木敏夫工藤真佐々木辰星野秀孝金博昭
1968星野仙一水谷則博大島康徳北野幸作三好真一竹田和史今村信彦小林浩二島谷金二
1969谷沢健一渡部司西田暢松本幸行山崎公晴大石正行金山仙吉渋谷幸春東貞美
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1970氏家雅行稲葉光雄三沢淳村上義則伊藤泰憲堂上照盛田嘉哉
1971藤沢哲也奥田和男白滝政孝金子勝美中嶋愛和宮本聡平松秀敏
1972鈴木孝政片貝義明谷木恭平田野倉利伊藤弘利豊島寛辻哲也
1973藤波行雄鈴木博昭中山俊之福島秀喜樋野和寿金森道正
1974土屋正勝神垣雅行高橋千秋貝塚博次松浦正
1975田尾安志美口博青山久人早川実福田功関東孝雄
1976都裕次郎生田裕之宇野勝今岡均高元勝彦中原勇一
1977藤沢公也小松辰雄石井昭男中林伸人秋田秀幸児玉克雄
1978高橋三千栗岡英智水谷啓昭平田恒雄
1979牛島和彦小松崎善島田芳明井出登
1980中尾孝義後藤祝秀古谷盛人長田克史
1981尾上旭浜田一夫倉田邦房金田進浜田知明古川利行
1982鹿島忠平沼定晴市村則紀近藤満彦野利勝宮下昌己
1983藤王康晴仁村徹三浦将明山田和利山本昌広清水治美
1984中村武志川畑泰博古川利行江本晃一米村明神山一義
1985斉藤学片平哲也内田強小森哲也前原博之遠田誠治
1986近藤真一山崎武司西村秀嗣荒川哲男長谷部裕本村信吾
1987立浪和義鎌仲政昭上原晃小美濃武音重鎮高橋幸二
1988今中慎二大豊泰昭山口幸司中嶋治彦酒井忠晴清水雅治
1989与田剛井上一樹松永幸男松井達徳山田喜久種田仁
1990小島弘務矢野輝弘山本保司吉田太森田幸一寺西秀人
1991落合英二佐々木健若林隆信若林弘泰井手元健佐野心永川満寿
1992佐藤秀樹鶴田泰野口茂樹吉鶴憲治伊礼忠彦古池拓一神野純一
1993平田洋鳥越裕介笹山洋一遠藤政隆工藤友也
1994金森隆浩山田洋山田広二原田政彦三輪敬司大西崇之
1995荒木雅博門倉健藤井優志渡辺博幸大塔正明益田大介日笠雅人
1996小山伸一森野将彦幕田賢治中野栄一山田貴志佐藤康幸筒井壮宮越徹
1997川上憲伸森章剛正津英志鈴木郁洋井端弘和高橋光信白坂勝史清水清人
1998福留孝介岩瀬仁紀小笠原孝蔵本英智川添將大矢口哲朗新井峰秀
1999朝倉健太福沢卓宏山北茂利
2000中里篤史洗平竜也井本直樹岡本真也土谷鉄平山崎賢太仲澤忠厚辻田摂
2001前田章宏田上秀則久本祐一前田新悟山井大介都築克幸高橋聡文
2002森岡良介櫻井好実植大輔長峰昌司小林正人瀬間仲ノ湊川誠隆
2003中川裕貴石川賢佐藤充中村公治堂上剛裕川岸強小川将俊
2004樋口龍美 中田賢一川井進鈴木義広石井裕也中村一生小山良男金剛弘樹
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2005(社) #吉見藤井淳志新井良太柳田殖生齊藤信介佐藤亮太
2005(高)平田良介春田剛高江洲拓金本明博
2006(社)田中大輔 浅尾拓也菊地正法岩崎達郎清水昭信西川明
2006(高)堂上直倫福田永将
2007(社)山内壮馬谷哲也
2007(高)赤坂和幸樋口賢
2008野本圭伊藤準規岩崎恭平高島祥平岩田慎司小熊凌祐井藤真吾
2009岡田俊哉小川龍也中田亮二松井佑介大島洋平諏訪部貴松井雅人吉田利一
2010大野雄大吉川大幾武藤祐太森越祐人関啓扶
2011高橋周平西川健太田島慎二辻孟彦川崎貴弘宋相勲
2012福谷浩司濱田達郎古本武尊杉山翔大溝脇隼人井上公志若松駿太
2013鈴木翔太又吉克樹桂依央利阿知羅拓祖父江大藤澤拓斗
2014野村亮介浜田智博友永翔太石川駿加藤匠馬井領雅貴遠藤一星山本雅士金子丈
2015小笠原慎佐藤優木下拓哉福敬登阿部寿樹石岡諒太

凡例は以下のとおりである。
凡例
白色指名に応じ入団した選手下線逆指名による入団選手
淡黄色シーズン後に入団した選手灰色入団を拒否した選手
※在学中に指名を取り消された高井諭選手については、背景色が淡緑色になっている。

なお、ドラフト制度の最初期には、指名した選手の交渉権を球団の側から放棄する例も少なくなかったそうだ。しかし、こうしたケースは入団を拒否されたためになされた交渉権放棄と区別することが難しい。そこでこの記事では、やむをえずこういった事例も入団拒否として扱っている。
※たとえば2014年に中日は育成1位指名の佐藤雄偉知選手の交渉権を放棄したが、これは「入団拒否の結果として交渉権を放棄」したケースである。
 参考記事: なぜ…中日 育成ドラ1の交渉権を放棄(Sponichi Annex)


育成選手

▲INDEX
次に、育成指名選手のリストを示す。

西暦1位指名2位指名3位指名4位指名5位指名6位指名7位指名8位指名9位指名10位以下
2005(育)竹下哲史加藤光教
2006(育)
2007(育)
2008(育)加藤聡小林高也
2009(育)矢地健人赤田龍一
2010(育)
2011(育)
2012(育)
2013(育)岸本淳希橋爪大佑
2014(育)佐藤雄偉石垣幸大藤吉優近藤弘基
2015(育)中川誠也吉田嵩三ツ間卓西浜幹紘呉屋開斗渡辺勝

これまで中日の育成指名を受けた選手の数は18名である。
これは12球団中で上から4番目の数にあたり、平均よりもやや多めである。

育成選手の指名数(2015年までの累計)
巨人   51横浜   14ロッテ   20福岡   42
中日18広島16オリックス8日本ハム0
阪神10ヤクルト12楽天14西武3

なお2016年現在、中日の育成指名を拒否した選手は佐藤雄偉知の1名のみである。


データの比較・分析

▲INDEX
これまでドラフト会議で中日ドラゴンズに指名された選手の数は育成選手を含めて365人。そのうち入団拒否は35名(※)だった。入団拒否率は9.59%で、これは新設された楽天を除く11球団のなかで2番目に少ない
※楽天を除く11球団で最小。

拒否率が10%を下回るのは11球団中で巨人と中日のみであり、ドラフト1位指名の選手に入団を拒否された経験がないのは11球団中で横浜と中日のみである。中日ドラゴンズはドラフト会議の場においては着実に戦力を確保してきた球団であるといえるだろう。
※育成1位の佐藤選手に拒否されたケースは除く。

ドラフト指名におけるチーム別入団拒否率(2015年まで)          
チーム名指名数拒否数拒否率順位
巨人391369.21%11
中日365359.59%10
阪神3414412.90%5
横浜3504212.00%6
広島3543911.02%9
ヤクルト3655615.34%3
福岡3714311.59%8
日本ハム3554211.83%7
西武3565415.17%2
ロッテ3655916.16%1
オリックス3444914.24%4
近鉄2655119.25%
楽天9400.00%

なお球団史上もっとも拒否率が高かったのは66.67%を記録した1973年だった。

※入団拒否率の推移:
※画像をクリックすると表の全体を表示する。

参考としてグラフも以下に示す。


なお、翌シーズン後などに遅れて入団した選手(三沢淳、片貝義明、藤沢公也、井出登、清水治美、遠田誠治)は例により拒否者に算入していない。また在学中であることを理由に指名を取り消された高井諭選手については、母数には含めているが拒否者としては扱っていない。

主な入団拒否者についての解説

▲INDEX
以下の項目では、ドラゴンズへの入団を拒否した主な選手につき、その後の活躍の概略を示す。
また特記すべき事項については私見により多少の解説を加える。

平松政次

▲INDEX
カミソリシュートの異名をとる変化球を武器に活躍した投手。1965年のドラフトで中日の4位指名を拒否した。
Wikipedia記事へのリンク:平松政次

翌1966年に大洋の2位指名を受けて入団すると、その後は先発投手として18年にわたり活躍。
最多勝のタイトルを2度、最優秀防御率のタイトルを1度獲得するなど優秀な成績を残した。

平松投手は現役通算で201勝196敗16セーブの成績を残し、通算防御率3.31をマークした。もしドラゴンズが平松投手を獲得できていたら、首位と1.5ゲーム差の3位に終わった1973年に中日は優勝を果たしていたかもしれない。この場合、いわゆるV9時代は1年早く終わっていただろう。

松井猛

▲INDEX
1958年に大毎オリオンズに入団したが、一軍出場の機会がないまま翌年に退団した選手。
Wikipedia記事へのリンク:松井猛

その後、社会人野球で活躍していた松井選手は1965年に中日ドラゴンズの10位指名を受けたが入団を拒否した。これはプロ野球を引退した選手がドラフト会議で指名を受けた唯一の例となっている。
※なお現在の制度では引退選手はドラフトの対象とはならない。

辻正孝

▲INDEX
1966年の1次ドラフトで中日ドラゴンズの5位指名を拒否した選手。
Wikipedia記事へのリンク:辻正孝

その後、いすゞ自動車に在籍していた辻選手は、1969年にアメリカのプロモーターであるウォルター・ディルベック氏が「日本・アメリカ・ドミニカ・プエルトリコ」の五カ国(6チーム)グローバル・リーグを作ろうと呼びかけたとき、その日本代表チームである東京ドラゴンズに入団した。
Wikipedia記事へのリンク:グローバルリーグ

このグローバル・リーグは1年でリーグそのものが崩壊してしまったため、辻選手はかつて指名拒否した中日の入団テストを受けて入団。しかし一軍公式戦に出場する機会がないまま1年で自由契約になってしまう。その後、東映フライヤーズ(現在の日本ハム)の入団テストを受けて合格・入団したが、やはり一軍の公式戦には出場できないまま1973年に引退した。

大西譲治

▲INDEX
1966年の1次ドラフトで中日ドラゴンズの6位指名を受けた選手。
Wikipedia記事へのリンク:大西譲治

このときは中日に入団せず河合楽器に入社したが、改めて1967年に中日にドラフト外で入団した。
大西選手は制球難に苦しみ、一軍戦に登板する機会がないまま1970年に引退した。

皆木敏夫

▲INDEX
1967年に中日が5位指名した選手。
Wikipedia記事へのリンク:皆木敏夫

中日が交渉権を放棄(※)したため同年にドラフト外で巨人に入団したが、一軍出場の機会がないまま1971年に引退し、その後はプロゴルファーを目指した。
※本稿では交渉権放棄も入団拒否に含めている。

小林浩二

▲INDEX
1968年に中日の9位指名を拒否した選手。
Wikipedia記事へのリンク:小林浩二

1971年に大洋の3位指名を受け入団したが、1974年にパンストで覆面をして女性宅に押し入り婦女暴行という前代未聞の事件を起こして逮捕。小林選手は無期限の失格処分になり、そのまま引退してしまった。プロ生活での通算成績は23打数2安打。通算打率は.100だった。

伊藤文隆

▲INDEX
速球派の投手。1972年に中日の9位指名を拒否した後は社会人野球で活躍し、1977年に1位指名を受けて阪神タイガースに入団した。1980年頃からローテーション入りした伊藤選手は、1982年に10勝を上げるなどそこそこの活躍を残している。
Wikipedia記事へのリンク:伊藤文隆
※なお1978年は伊藤弘利、1979年以降は伊藤宏光という登録名を用いていた。

1988年には開幕から2戦連続で完封勝利をあげ好調を示すが、同年4月の大洋戦で右足を怪我して以降は成績が振るわなくなり、1991年に現役を引退した。生涯成績は54勝81敗。通算防御率は4.43だった。

中山俊之

▲INDEX
都市対抗野球大会で初代の若獅子賞(新人賞)を獲得した右腕。1973年のドラフトで中日の3位指名を拒否した。
Wikipedia記事へのリンク:中山俊之

翌1974年に巨人の2位指名を受けて入団した伊藤選手だが、巨人では目立った活躍を残すことができないまま1978年限りで引退した。生涯戦績は2勝0敗。通算防御率は5.19だった。

福島秀喜

▲INDEX
1973年に中日ドラゴンズの4位指名を拒否した投手。
Wikipedia記事へのリンク:福島秀喜

社会人では防御率0.93を残すなど活躍し、1975年に1位指名を受けて日本ハムに入団したが、1軍公式戦には出場することができないまま1978年に引退した。なお当時日本ハムの監督であった大沢啓二氏は、このドラフトで後に200勝投手となる北別府学選手を獲得しそこなったことについて後悔する旨のコメントを残している。
参考リンク: 職業野球人~大沢啓二/第4章 14・痛恨…200勝投手獲得を見送る (Sponich Annex記事)
Wikipedia記事へのリンク:大沢啓二 北別府学

浜田知明

▲INDEX
1981年に中日のドラフト5位指名を拒否した投手。翌1982年に阪神の5位指名を受けたときは入団した。
Wikipedia記事へのリンク:浜田知明

浜田選手は腰痛に苦しんだことなどもあり、プロのマウンドではそれほどの成績を残すことはできなかった。通算成績として0勝2敗、通算防御率として5.77の数字が残っている。

古川利行

▲INDEX
1981年に中日の6位指名を拒否した投手。1984年に再度ドラゴンズに3位指名され入団した。
Wikipedia記事へのリンク:古川利行

1985年は1中継ぎの左腕として6試合に登板したが、翌年は登板機会が減少。
1987年に引退するまでの通算成績は0勝0敗、防御率4.50だった。

諏訪部貴大

▲INDEX
2009年に中日の6位指名を拒否した選手。中日が指名選手に入団を拒否されるのは28年ぶりのことだった。
Wikipedia記事へのリンク:諏訪部貴大

諏訪部選手自身は、ここで断っても翌年以降に上位指名されるだろうと自信を見せていたが、結局その後はプロの指名を受けることはなかった。右肘の故障の影響もあったのかもしれない。社会人野球のHONDAの野球部からも2012年に引退している。

下位指名を嫌って入団を拒否し結局そのままプロ入りできなかった諏訪部選手だが、HONDAに残留したのはおそらく賢明な選択だっただろうと思われる。

プロの舞台で活躍できる選手は一握りである。右肘に故障を抱えていることも考えれば、たとえプロ入りしていてもそれほどの活躍を残せてはいなかった可能性は高い。引退後の再就職が厳しいことを思えば、一流企業に残れたのは本人にとっても幸運だったのではないだろうか。

佐藤雄偉知

▲INDEX
2014年に中日の育成1位指名を拒否した選手。

現在(2016年10月)のところドラゴンズの指名を拒否した最後の選手であり、またドラゴンズの育成指名を拒否した唯一の選手でもある。入団拒否後はやはりHONDAに入社して社会人野球の道を選んだらしい。
※本稿では「交渉権放棄も入団拒否に含める理由」の説明に毎回駆りだされているので、筆者的には「おなじみ」の選手である。

最後に

▲INDEX
ここ数年、中日ドラゴンズは思わしくない成績のシーズンが続いている。

2016年も最下位に終わり、これで4年連続のBクラスである。中日が4年連続で4位以下になるのは2リーグ分立後初めてのことらしい。2004年のシーズンから落合監督のもとで8年連続のAクラス入りを果たし、うち4度のリーグ優勝を達成した黄金期の中日は今や見る影もない。
Wikipedia記事へのリンク:落合博満

特に今年(2016)は酷かった。2014年のシーズンから監督をつとめていた谷繁氏は、今シーズン半ばで事実上解任されてしまったものの、その後もセリーグ6球団の最低打率最低打点を記録した打撃の低調ぶりが響いて82敗をマークし、実に19年ぶりの最下位を記録してしまった。
Wikipedia記事へのリンク:谷繁元信

若手の選手が育っていなかったこと。3000試合出場を果たしたほどの名捕手である谷繁氏自身が引退してしまったこと。フロントによる戦力補強の結果が芳しくなかったこと。敗因を挙げればキリがないが、何にせよ監督の采配のみではどうにもならないところに根深い問題があるように見える。谷繁氏にのみ低迷の責任を負わせるわけにはいかないだろう。

2000年代後半に中日の黄金期を築いた落合監督だが、多くの野球ファンに焼畑式農業と揶揄された選手起用法には負の面も大きかった。中継ぎの浅尾投手に至っては2009年から3年にわたり67登板72登板78登板と酷使された。落合監督の時代に使い潰された選手の負の遺産のことも当然考えねばなるまい。
Wikipedia記事へのリンク:浅尾拓也

成績が低迷している中日だが、逆に明るいニュースもある。2016年度のドラゴンズの観客動員数が前年度比で1.8%増えたらしいことだ。落合氏が監督を勤めていた2010年、2011年のシーズンには優勝しても観客動員が減る状態であっただけに、これは非常に喜ばしいことだろう。
参考PDF:2016年度 セントラル・リーグ入場者数(日本プロ野球機構)
画像:累計入場者数の推移(セントラル・リーグ/2009~2015年)

成績が低迷しているとはいえ中日にはまだまだ根強いファンの支持がある。焼畑式農業で衰えた地力を蓄えなおし、新たな苗を植えてチームを立て直す。それができるだけの猶予期間は十分にあるはずだ。

次回予告

▲INDEX
順序に従えば、次回は2015年のパ・リーグで最下位だった東北楽天イーグルスについて記述することになる。ただし、この球団は2005年に新設された球団であり、未だに一人の指名拒否者も現れていない。したがって、次回の記事は単に指名者リストを表示するだけのものになるだろう。

例により、拒否率の計算に使用したファイルは別サイトにアップロードされている。
もし必要であればこちらのリンクからダウンロードしていただきたい。
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ZOA

Author:ZOA
実験記者。

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