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入団拒否率にみるプロ野球(File9:オリックス編)

このエントリーはドラフトにおける指名拒否を主題とする記事の第9回目にあたる。今回は前年度(2015年度)パリーグ5位のオリックス・バファローズについて書く。


目次

▲PAGE TOP
 ・指名/拒否のリスト
 ・育成選手
 ・データの比較・分析
 ・主な入団拒否者についての解説
 ・終わりに
 ・次回予告

指名/拒否のリスト

▲INDEX
例により、まず指名・拒否のリストを示す。なお球団の名称は以前は阪急ブレーブスであったが、1988年の買収時にオリックス・ブレーブスに変更され、1990年にはオリックス・ブルーウェーブに改称された。現在のオリックス・バファローズという球団名になったのは、2004年に吸収合併した近鉄バファローズの名称を引き継いだものである。

例により下記のリストはWikipediaのドラフトに関係する各年の記事をまとめることによって作成したものである。そのため選手名もWikipediaへのリンクになっている。Wikipedia側で同名の記事が作成されている場合には別タブで詳細な記事を読むことができるだろう。

なお、近鉄バファローズの指名選手についてはリストから除外されている。
※近鉄の選手については最終のFile13にまとめる予定である。

西暦1位指名2位指名3位指名4位指名5位指名6位指名7位指名8位指名9位指名10位以下
1965長池徳二斎藤喜住友平谷沢健一豊田憲司小田義人神山修中田拓水谷勇
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1966(一次)水谷孝流敏明斎藤芳明保谷俊夫田代静夫斎場巳司村上修清宮高
1966(二次)平林二郎岩本紘一畑矢敬治前田正宏阪本敏三
1967渡辺一夫宮本幸信渡辺幸三正垣泰祐渡辺勉醍醐恒男合田養太田高義当銀秀崇安井智浩
1968山田久志加藤秀司長谷部優柳橋明新井良夫島崎基慈福本豊柿本進切通猛
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1969三輪田勝国岡憲治宇野輝幸田中末一秋元国武長嶺俊一岡本一光副島末男
1970小松建二今井雄太小関康雄細川安雄高須正義日高兼一福間納大西忠三宅昇
1971渡辺弘基佐藤昭夫畑野実ケネス・内堀敏幸渡辺守
1972石田真大島郁将石田芳雄大倉博夫城間盛雅
1973江川卓山下浩二池田昭土居靖典前田亨
1974山口高志松井満笠間雄二鈴木弘規前川光春浜野正明
1975住友一哉簑田浩二木村基治加藤安雄森正敏中司得三
1976佐藤義則森本進吉沢俊幸平山正人根本俊郎山本良材
1977松本正志三浦広之米村理小林晋哉工藤博義金本誠吉
1978関口朋幸石嶺和彦大石直弘山森雅文
1979木下智裕森浩二八木茂矢田万寿
1980川村一明長村裕之弓岡敬二西尾利春
1981山沖之彦太田敏之南牟礼豊有賀佳弘岩本好広田島克彦
1982榎田健一田中孝尚藤田浩雅柴原実湧川勉山中賢次
1983野中徹博小林敦美飯塚富司東哲也星野伸之栫政彦
1984白井孝幸古溝克之熊野輝光高橋智二宮正己福良淳一
1985石井宏山本誠渡辺伸治本西厚博高見泰範風岡尚幸
1986高木晃次山越吉洋中嶋聡藤井康雄島袋修
1987伊藤敦規山内嘉弘八木政義伊藤隆偉
1988酒井勉小川博文中村佳広山崎尚史戸羽隆芦苅芳久
1989佐藤和弘吉田直喜高橋功一藤本俊彦松山秀明佐々木明
1990長谷川滋戎信行野村貴仁岩崎久則山本栄二
1991田口壮萩原淳本東洋鈴木一朗北川晋西芳弘山本大貴
1992小林宏金田政彦牧野塁関吉雅人東政敏
1993平井正史三輪隆斉藤秀光福留宏紀
1994嘉勢敏弘丸尾英司五島裕二豊田次郎
1995今村文昭川崎泰央日高剛太田敦士田中雅興
1996杉本友谷佳知塩崎真佐竹学栗山聡
1997川口知哉前田和之前田浩継杉本潔彦高橋信夫永田能隆
1998新垣渚川越英隆相川良太木村昌広徳元敏
1999山口和男葛城育郎迎祐一郎岩下修一
2000内海哲也大久保勝上村和裕相木崇開田博勝高見澤考北川智規高橋浩司庄司大介
2001小川裕介 平野恵一 島脇信也早川大輔肥田高志山本拓司辻竜太郎本柳和也
展開する
2002加藤大輔 鈴木誠前田大輔菊池俊夫長田勝塩屋大輔中島俊哉
2003歌藤達夫 柴田誠也嶋村一輝野村宏之松村豊司小島昌也由田慎太
2004金子千尋 光原逸裕町豪将田中彰
2005(社)平野佳寿 岸田護森山周中山慎也妹尾軒作
2005(高)岡田貴弘柴田亮輔
2006(社)小松聖 大引啓次
2006(高)延江大輔梅村学人仁藤拓馬土井健大
2007(社)小林賢司小瀬浩之
2007(高)丹羽将弥伊藤光山崎正貴
2008甲斐拓哉伊原正樹西勇輝高島毅西川雅人
2009古川秀一比嘉幹貴山田修義前田祐二阿南徹
2010後藤駿太三ツ俣大宮崎祐樹塚原頌平深江真登
2011安達了一縞田拓弥佐藤達也海田智行庄司龍二堤裕貴小島脩平川端崇義
2012松葉貴大佐藤峻一伏見寅威武田健吾森本将太戸田亮
2013吉田一将東明大貴若月健矢園部聡吉田雄人奥浪鏡柴田健斗大山暁史
2014山崎福也宗佑磨佐野皓大高木伴齋藤綱記坂寄晴一西野真弘小田裕也鈴木優
2015吉田正尚近藤大亮大城滉二青山大紀吉田凌佐藤世那鈴木昂平角屋龍太赤間謙杉本裕太

凡例は以下のとおりである。
凡例
白色指名に応じ入団した選手下線逆指名による入団選手
淡黄色シーズン後に入団した選手灰色入団を拒否した選手

なお、ドラフト制度の最初期には、指名した選手の交渉権を球団の側から放棄する例も少なくなかったそうだ。しかし、こうしたケースは入団を拒否されたためになされた交渉権放棄と区別することが難しい。そこで、やむをえずこういった事例も入団拒否として扱っている。
※たとえば2014年に中日は育成1位指名の佐藤雄偉知選手の交渉権を放棄したが、これは「入団拒否の結果として交渉権を放棄」したケースである。
 参考記事: なぜ…中日 育成ドラ1の交渉権を放棄(Sponichi Annex)


育成選手

▲INDEX
次に、育成指名選手のリストを示す。
西暦1位指名2位指名3位指名4位指名5位指名6位指名7位指名8位指名9位指名10位以下
2005
2006
2007梶本達哉
2008
2009
2010
2011稲倉大輝柿原翔樹
2012原大輝西川拓喜
2013東弘明
2014
2015塚田貴之赤松幸輔

これまでオリックスの育成指名を受けた選手の数は8名である。
これは平均よりやや少なめな数である。

育成選手の指名数(2015年までの累計)
巨人   51横浜   14ロッテ   20福岡   42
中日18広島16オリックス8日本ハム0
阪神10ヤクルト12楽天14西武3

なお2016年現在、オリックスの育成指名を拒否した選手は存在しない。

データの比較・分析

▲INDEX
これまでオリックスは344名の選手を指名し、うち49名の選手に入団を拒否されている。拒否率14.24%は新設の楽天を除く11球団のうち高い側から4番目にあたり、全体でもかなり高い水準にあるといえる。

ドラフト指名におけるチーム別入団拒否率(2015年まで)          
チーム名指名数拒否数拒否率順位
巨人391369.21%11
中日365359.59%10
阪神3414412.90%5
横浜3504212.00%6
広島3543911.02%9
ヤクルト3655615.34%3
福岡3714311.59%8
日本ハム3554211.83%7
西武3565415.17%2
ロッテ3655916.16%1
オリックス3444914.24%4
近鉄2655119.25%
楽天9400.00%

球団史上もっとも拒否率が高かったのは13人中9人に拒否された1965年であり、その拒否率は約69.2%だった。

※入団拒否率の推移:
※画像をクリックすると表の全体を表示する。

参考としてグラフも以下に示す。


なお、翌シーズン後などに遅れて入団した選手(山田久志・切通猛・佐藤昭夫・本西厚博)は拒否者に算入していない。

主な入団拒否者のついての解説

▲INDEX
次に、オリックスへの入団を拒否した主な選手につき、その後の活躍の概略を示す。
例により特記すべき事項については私見による多少の解説を加える。

谷沢健一

▲INDEX
1965年、阪急ブレーブスの4位指名を拒否した選手。
高校卒業後は早稲田大学に入学し、六大学リーグで大学通算打率.360をマークするなど活躍した。
Wikipedia記事へのリンク:谷沢健一

1969年には中日ドラゴンズの1位指名を受けて入団し、入団初年度(※)からレギュラーとして活躍。
1976年には打率.355を記録して首位打者も獲得した。
※打率.251ながら同年の新人王も獲得している。

大学時代から持病としてアキレス腱痛を抱えていたが、酒マッサージなる療法により克服したらしい。
1978~79年のシーズンは故障に苦しんだものの、1980年には復活して再び首位打者(打率.369)を獲得した。
Wikipedia記事へのリンク:酒マッサージ

矢沢選手は17年の現役生活で2062安打を放ち、通算打率.302を残した。加藤秀司選手とポジションが重なるものの、もし阪急に入団していたら花の44年組(山田久志、福本豊、加藤秀司)と呼ばれる名選手らと共に、1970年代の黄金期を支えていたかもしれない。
Wikipedia記事へのリンク:加藤秀司 山田久志 福本豊

豊田憲司

▲INDEX
右投右打の投手。1965年に阪急ブレーブスの5位指名を拒否して芝浦工大に入学した。
Wikipedia記事へのリンク:豊田憲司

卒業後はいすゞ自動車に入社していたが、1971年に5位指名を受けて西鉄ライオンズに入団。ルーキーイヤーの1972年には21試合に登板したが好成績を残すことができず、1973年限りで引退。通算成績は0勝1敗、通算防御率は5.00だった。

小田義人

▲INDEX
大昭和製紙に在籍していた右投右打の一塁手。1971年の産業対抗野球で最優秀選手に選ばれた。
Wikipedia記事へのリンク:小田義人

1972年にヤクルトアトムズの2位指名を受けて入団したが、思うような打撃成績を残せず1975年には日本ハムに移籍。日本ハムでは移籍初年度に首位打者に1厘差に迫る高打率(.319)を残すなどの活躍を残すが、その後は徐々に成績が下降。再トレード先の南海、近鉄でもそれほどの活躍は残せなかった。

生涯通算安打は610本。通算打率は.256。もし1965年度の段階で阪急に入団していても黄金期の阪急で活躍を残すのは難しかったように思える。1969年に入団する加藤秀司氏にポジションを奪われ、結局は他球団にトレードされていたかもしれない。

黒田正宏

▲INDEX
1965年に阪急の10位指名を拒否した捕手。1970年に南海の6位指名を受けたときは入団した。
Wikipedia記事へのリンク:黒田正宏

当時の南海には野村克也という絶対的な名捕手がいたために出場の機会はあまりなかったが、野村の退団後は正捕手を任された。球史に残る屈指の強打者であった野村選手とはむろん比べるべくもないだろうが、黒田選手は現役通算で222安打を放ち打率.197を残している。
Wikipedia記事へのリンク:野村克也

黒田選手が入団を拒否した1965年の阪急ブレーブスには、1970年代の後半に捕手として活躍する中沢伸二選手がドラフト外で入団している。もしこのとき黒田選手が阪急に入団していれば、あるいは中沢選手とポジション争いを繰り広げていたかも知れない。
Wikipedia記事へのリンク:中沢伸二

なお、黒田選手は戦国期に活躍した武将黒田官兵衛の子孫であるそうだ。
Wikipedia記事へのリンク:黒田孝高

村上義則

▲INDEX
1968年に阪急の11位指名を拒否した選手。1970年に4位指名を受けて中日ドラゴンズに入団したものの、プロでは目だった実績を残すことはできなかった。7年間の現役生活で20試合に登板し、通算成績は1勝1敗。通算防御率として3.94という数値が残っている。
Wikipedia記事へのリンク:村上義則

なお、村上選手は唯一の先発登板であった1974年10月の試合で長島茂雄選手に現役最後の本塁打(444号)を打たれ、長島にホームランを打たれた最後の投手として記憶に残ることになってしまった。

門田博光

▲INDEX
不惑の大砲の異名をとる大打者。実は阪急の12位指名を1968年に拒否している。
Wikipedia記事へのリンク:門田博光

翌1969年に2位指名を受けて南海ホークスに入団し、プロ入り2年目(1971年)に打点王を獲得するなど長きに渡って強打者として活躍した。門田選手は現役通算で2566安打歴代4位)を放ち、567本塁打1678打点(いずれも歴代3位)をマークした。生涯通算打率は.289。

なお門田選手は1989年、1990年のシーズンのみはオリックスにも入団している。いずれのシーズンも30本を越える本塁打を放ち、90を越える打点を残すなど優秀な成績を残した。もし1968年のドラフトで門田選手を獲得できていれば、黄金時代の阪急はさらに目覚しい戦績を残せていただろう。

福間納

▲INDEX
1970年に阪急の7位指名を拒否した選手。翌年にロッテの1位指名を受けて入団した。
Wikipedia記事へのリンク:福間納

ロッテでは2年で49投球回を投げて防御率4.41(0勝1敗)とあまり活躍できなかったが、移籍先の阪神では中継ぎの要として活躍。特に1983年のシーズンでは69試合に登板して防御率2.62を残し最優秀防御率のタイトルを獲得。また翌年のシーズンでは当時のセリーグ記録である77試合に登板して福間・谷間・福間・谷間(シーズン140試合しかないので決して誇張ではない)とまで言われるほどの活躍を残した。

福間選手は12年の現役で22勝21敗をマークし、通算防御率として3.67の記録を残した。もちろんロッテを退団した経緯から、もし阪急に入団していても活躍できていたかは疑問ではある。しかし、福間選手を獲得できていれば1980年台前半からの停滞期にもう少し良い成績を残せていた可能性はある。

江川卓

▲INDEX
今年(2016年)夏の甲子園大会で優勝を果たした作新学園のOB。超高校級のエース投手で怪物の異名をとっていた。
(耳が大きく、藤子不二雄A氏の漫画「怪物くん」の主人公に似ていたためでもある)
Wikipedia記事へのリンク:江川卓 藤子不二雄A 怪物くん

1973年のドラフトでは阪急の1位指名を拒否して法政大に進学し、1977年のドラフトでは西鉄の1位指名も断り悪名高い空白の一日事件(江川事件)を起こしてしまう。この事件については、阪神タイガースについてのエントリーで詳述したが、この一件が球界に残した禍根は相当なものであり、特に(多分に自業自得であるとはいえ)読売ジャイアンツはその人気に大きなダメージを蒙った。
Wikipedia記事へのリンク:江川事件

江川選手は生涯通算で135勝(72敗)をあげ、通算防御率3.02をマークした。また最多勝のタイトルを2度、最優秀防御率のタイトルを1度獲得している。あれほど球界を騒がせた投手としてはやや物足りない通算成績ではあったものの、充分に一流といいうるだけの成績は残したといえるだろう。

もっとも江川選手についていえば、そもそも戦力や成績をどうこういう以前の問題として、「素直に阪急なり西鉄なりに入団しておけば良かったのに」と思わざるを得ない。そうしていれば江川氏も球界にあれほどの禍根を残すことはなかっただろう。

笠間雄二

▲INDEX
1973年に太平洋クラブライオンズ(現:西武ライオンズ)の5位指名を拒否していた捕手。
Wikipedia記事へのリンク:笠間雄二

1974年に阪急ブレーブスの3位指名を拒否した後、1976年に巨人の6位指名を受けて入団。しかし、1977年に1位指名で入団した山倉和博氏とのポジション争いに敗れ、結局1980年には一度入団を拒否したブレーブスへとトレードされてしまった。
Wikipedia記事へのリンク:山倉和博

笠間選手は阪急では目だった成績を残せず1年で阪神に再トレードされてしまった(※)が、再移籍先の阪神では、笠間選手は短い期間ながらそれなりの活躍を残した。なお、笠間選手は生涯通算で198安打を放ち、打率.236という記録を残している。
※この年は31打数3安打で打率.097という悲惨な打撃成績を残してしまっている。

住友一哉

▲INDEX
1975年に阪急の1位指名を拒否した鳴門高校の右腕投手。
Wikipedia記事へのリンク:住友一哉

法政大卒業後はプリンスホテルに入社していたが、1981年に6位指名を受けて近鉄に入団した。住友選手は近鉄で主に救援投手として活躍し、1989年に移籍した阪神でもやはりリリーフ陣の一角として一定の活躍を残した。生涯通算成績は18勝11敗17セーブ。通算防御率は4.18だった。

中司得三

▲INDEX
右投右打の外野手。1975年に阪急ブレーブスの6位指名を拒否して日本生命に入社した。
Wikipedia記事へのリンク:中司得三

1978年にドラフト外で読売ジャイアンツに入団したものの、目立った活躍を残せないまま1984年に引退。
生涯通算安打はわずかに1本。通算打率は.091だった。

川村一明

▲INDEX
1980年に阪急ブレーブスの1位指名を拒否した投手。
Wikipedia記事へのリンク:川村一明

川村選手は西武でも、トレード先のヤクルトでも、目だった活躍は残すことができずに1991年に引退している。西武鉄道グループの子会社であるプリンスホテルに入社した後、1984年に西武の4位指名を受けて入団しているのであるいは西武による「囲い込み」だったのかもしれない。
Wikipedia記事へのリンク:プリンスホテル硬式野球部 西武グループ

なお川村選手の生涯通算成績は7勝5敗1セーブ。また通算防御率として5.09の数字が残っている。

高見泰範

▲INDEX
1985年に阪急ブレーブスの5位指名を拒否した選手。その後、東芝に入団し社会人野球で活躍した。
銅メダルを獲得したバルセロナ・オリンピックでは日本選手団の主将もつとめている。
Wikipedia記事へのリンク:高見泰範

新垣渚

▲INDEX
1997年にオリックスの1位指名を拒否した選手。
Wikipedia記事へのリンク:新垣渚

なお、このドラフト指名を巡っては、スカウトの三輪田勝利氏が飛び降り自殺するという痛ましい事件が起きてしまっている。新垣投手の家族はオリックスとの交渉を完全に拒否し、三輪田氏の訪問を全て門前払いしたために、三輪田氏は新垣投手を必ず獲得するようにとの指示を出したフロントと、頑なに拒否の姿勢を崩さない新垣側との間で板ばさみになってしまったそうだ。
Wikipedia記事へのリンク:三輪田勝利

遺書などが残っていないため自殺の動機については明瞭ではない。当時はドラフト指名に関して選手や周囲の人間に裏金を渡して囲い込む手法が横行していたという話もあり、本人や家族に裏金を渡して翻意させようとする手法が三輪田氏の良心の呵責につながっていたのではないかという推測する向きもある。

いずれにせよ三輪田氏とフロントのあいだには何らかの齟齬、ないし軋轢が生じていた可能性は高い。

新垣投手は2002年に逆指名制度を利用してホークスに入団。その後ヤクルトに移籍し、2015年度までに63勝62敗をマークし、通算防御率3.92をマークしている。ルーキーの頃に期待の大きさからいえばやや物足りない成績のようにも思えるが、一流とは呼べないまでも準一流といえる成績は残しているといえるだろう。

なお新垣投手は非常に暴投の多い投手としても知られており、シーズン25暴投日本記録を保持している。
※1イニング3暴投、1試合5暴投も日本記録。


内海哲也

▲INDEX
敦賀気比高等学校のエースだった左腕投手。2000年のドラフト会議では当初から複数球団の争奪戦が確実視されていたが、祖父の内海五十雄選手が巨人でプレーしていたこともあり、最初から巨人以外の指名を拒否することを明言していた。
Wikipedia記事へのリンク:内海哲也 内海五十雄

高校時代にバッテリーを組んでいた李景一選手が8位指名を受けて巨人に入団したこともあり、内海選手は同年のドラフトでオリックスの1位指名を予告どおり拒否。内海選手は東京ガスに入社し、2003年に逆指名制度を利用して当初の希望通りジャイアンツに入団した。
Wikipedia記事へのリンク:李景一

内海選手は2015年度までに117勝(83敗)をあげ、防御率3.04の記録を残している。
2011年、2012年度のシーズンは最多勝のタイトルも獲得した。

悪くとも10勝前後は期待できる投手であり、もし内海選手を獲得できていたら、1990年代末頃から続くオリックスの低迷期はだいぶマシになっていた可能性が高い。特に首位に2.5ゲーム差に迫った2008年度には、あるいは優勝を果たしていたかもしれない。

開田博勝

▲INDEX
2000年にオリックスの5位指名を受けた外野手で、苗字は「ひらきだ」と読む。
Wikipedia記事へのリンク:開田博勝

指名はしたもののオリックスは開田選手の獲得はそれほど重視していなかったらしい。契約金は無く、また交渉にも一切応じないという条件を開田選手側に伝えたところ入団を拒否されたそうだ。なお、三菱重工長崎に残留した開田選手は、2011年度からは同野球部の監督に就任している。

最後に

▲INDEX
2015年のシーズンは5位と低迷したオリックスだったが、2016年はさらに悲惨な状態になってしまった。
オープン戦、交流戦、一軍、二軍の全てが最下位となりプロ野球史上初の完全最下位などと揶揄されている。

もちろん球団に勝ちたいという意欲は見える。そもそもの敗因も補強をしなかったことではなく、防御率7.30に沈んだコーディエ投手など大型補強に失敗したのが敗因であろう。きちんとした調査をしたうえで、ちゃんと「使える」選手を連れてくることができればだいぶマシな状態にはなるはずだ。
Wikipedia記事へのリンク:エリック・コーディエ

フロントに球団を再建する意思が見えない場合にはどうしても低迷が続きやすい。しかし、経営側に勝つ意思がある場合には話は違う。たとえるなら今は車のギアが空回りしているだけの状態で、動力機関に火は入っているのである。何かの拍子に歯車がかみ合えば分からない。

来年以降のオリックスは、これまでの低迷が嘘のような復活を見せてもおかしくはない。
少なくとも筆者はそう考えている。

次回予告

▲INDEX
順序に従えば次回は2015年のセ・リーグ5位、中日ドラゴンズについて記述することになるだろう。

拒否率の計算に使用したファイルは今回も別サイトにアップロードされている。
もし必要であればこちらのリンクからダウンロードしていただきたい。
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