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入団拒否率にみるプロ野球(File8:広島編)

本エントリーはドラフトにおける指名拒否をテーマとする記事の第八回目である。今回は前年度(2015年度)セ・リーグ4位の広島東洋カープについて書く。

目次

▲PAGE TOP
 ・指名/拒否のリスト
 ・育成選手
 ・データの比較・分析
 ・主な入団拒否者についての解説
 ・終わりに
 ・次回予告

指名/拒否のリスト

▲INDEX
まず、指名・拒否のリストを示す。なお球団の名称は以前は単に広島カープであった。正式名称が現在の広島東洋カープに変更されたのは、1968年に東洋工業(現マツダ)の松田社長がオーナーに就任した際のことである。もちろん、リスト自体は便宜上一つの表にまとめられている。
Wikipedia記事へのリンク:マツダ 藤高俊彦

前回までと同様に、下記のリストはWikipediaのドラフトに関係する各年の記事をまとめることによって作成したものである。そのため選手名もWikipediaへのリンクになっている。Wikipedia側で同名の記事が作成されている場合には別タブで詳細な記事を読むことができるだろう。

西暦1位指名2位指名3位指名4位指名5位指名6位指名7位指名8位指名9位指名10位以下
1965佐野真樹白石静生鎌田豊水谷実雄河端良二山元二三竹野吉郎福島久上柏徳治
展開する
1966(一次)須山成二三村敏之小野一茂古角哲士
1966(二次)西本明和矢沢正東山親雄佐藤直信
1967井上弘昭植村秀明河井昭司岩崎良夫坂井大志外山義明吉田茂有田哲三山根政明片岡一美
1968山本浩司水沼四郎山口喜司石川政雄前保洋稲葉光雄益田芳樹六條誠一上林成行
1969千葉剛渋谷通上垣内誠森永悦弘小林正之西沢正次島村雄二斎藤数馬竹中昭
展開する
1970佐伯和司永本裕章石井高雄前田三郎金城基泰荒金雄司守岡茂樹
1971道原博幸劔持節雄永射保荒谷稔岡義朗山形和幸根建忍浜納一志松田節男若松茂樹
1972池谷公二松林茂萩野友康長島吉邦小俣進青木康彰竹桝和也木本茂美木山英求
1973木下富雄福井文彦瀬戸和則福島義隆野村豊入江道生石淵国博
1974堂園喜義望月卓也高橋慶彦中川惣一相良憲治
1975北別府学山根和夫長内孝小林誠二小川良一高月敏文
1976山崎隆造土居正史平田英之立野政治小川達明山本穰
1977田辺繁文下地勝治林正毅達川光男川中圭三高木真一
1978木田勇大久保美北林久伊藤嘉彦
1979片岡光宏永田利則滝口光則山中潔
1980川口和久榊原聡一松林和雄原伸次
1981津田恒美斉藤浩行高木宣宏木原彰彦上本孝一及川美喜
1982西田真二白武佳久定岡徹久太田龍生鍋屋道夫田中和博
1983川端順小早川毅紀藤真琴伊藤寿文石本龍臣阿部慶二
1984杉本正志正田耕三石橋文雄熊澤秀浩中村基昭
1985長冨浩志高信二河田雄祐谷下和人足立亘
1986栗田聡小野一也緒方孝市望月一
1987川島堅石貫宏臣北原喜久水沢英樹塚本善之芦沢公一
1988野村謙二佐藤裕幸畝龍実近藤芳久江藤智千代丸亮
1989佐々岡真仁平馨前間卓前田智徳山口晋浅井樹
1990瀬戸輝信小野幸一高橋英樹山崎健小林敦司松本隆
1991町田公二徳本政敬佐藤貞治金本知憲杉田勇伊藤真小畑幸司大石昌義
1992佐藤剛菊地原毅鈴木健吉本亮井上浩司多田昌弘池田郁夫高橋顕法
1993山根雅仁上田好剛玉木朋孝福地和広田中由基品田寛介
1994山内泰幸嶋重宣朝山東洋高橋建横山竜士田村恵井上紘一
1995長谷川昌吉年滝徳玉木重雄伊与田一高山健一鈴衛佑規
1996澤崎俊和黒田博樹河野昌人福良徹
1997遠藤竜志兵動秀治林昌樹小林幹英倉義和青木智史岩崎智史橋本啓
1998東出輝裕井生崇光矢野修平森笠繁小山田保新井貴浩酒井大輔広池浩司
1999河内貴哉木村一喜栗原健太末永真史佐竹健太苫米地鉄松本奉文長崎元
2000横松寿一廣瀬純玉山健太甲斐雅人田村彰啓石橋尚登岡上和典
2001大竹寛大島崇行石原慶幸山本翔国木剛太山本芳彦筒井正也天谷宗一天野浩一
2002永川勝浩 吉田圭鞘師智也松本高明
2003白濱裕太比嘉寿光尾形佳紀仁部智
2004佐藤剛士森跳二丸木唯小島紳二梅津智弘金城宰之田中敬人
2005(社)梵英心梅原伸亮飯田宏行
2005(高)鈴木将光今井啓介齊藤悠葵相澤寿聡
2006(社)宮崎充登 上野弘文青木高広中東直己
2006(高)前田健太會澤翼
2007(社)篠田純平小窪哲也松山竜平
2007(高)安部友裕丸佳浩中村憲
2008岩本貴裕中田廉小松剛申成鉉
2009今村猛堂林翔太武内久士庄司隼人伊東昂大川口盛外
2010福井優也中村恭平岩見優輝金丸将也磯村嘉孝中崎翔太弦本悠希
2011野村祐輔菊池涼介戸田隆矢土生翔平
2012高橋大樹鈴木誠也上本崇司下水流昂美間優槻
2013大瀬良大九里亜蓮田中広輔西原圭大中村祐太
2014野間峻祥薮田和樹塹江敦哉藤井皓哉桑原樹飯田哲矢多田大輔
2015岡田明丈横山弘樹高橋樹也船越涼太西川龍馬仲尾次オ青木陸

凡例は以下のとおりである。
凡例
白色指名に応じ入団した選手下線逆指名による入団選手
淡黄色シーズン後に入団した選手灰色入団を拒否した選手

なお、ドラフト制度の最初期には、指名した選手の交渉権を球団の側から放棄する例もみられたそうだ。しかし、これらのケースは入団を拒否されたためになされた交渉権放棄と区別することが難しい。そこで、やむをえずこういった事例も入団拒否として扱っている。
※たとえば2014年に中日は育成1位指名の佐藤雄偉知選手の交渉権を放棄したが、これは「入団拒否の結果として交渉権を放棄」したケースである。
 参考記事: なぜ…中日 育成ドラ1の交渉権を放棄(Sponichi Annex)


育成選手

▲INDEX
次に、育成指名選手のリストを示す。

西暦1位指名2位指名3位指名4位指名5位指名6位指名7位指名8位指名9位指名10位以下
2005中谷翼
2006山中達也
2007山内敬太
2008松田翔太
2009永川光浩中村亘佑
2010山野恭介池ノ内亮
2011富永一中村真崇塚田晃平三家和真
2012
2013辻空森下宗
2014松浦耕大木村聡司
2015

これまで広島の育成指名を受けた選手の数は16名であり、これは概ね平均的な数である。

育成選手の指名数(2015年までの累計)
巨人   51横浜   14ロッテ   20福岡   42
中日18広島16オリックス8日本ハム0
阪神10ヤクルト12楽天14西武3

なお2016年現在、広島の育成指名を拒否した選手は存在しない。

データの比較・分析

▲INDEX
これまで広島は354名の選手を指名し、うち39名の選手に入団を拒否されている。拒否率11.03%は新設の楽天を除く11球団のうち低いほうから3番目であり、全球団中でもかなり低い水準であるといえよう。

ドラフト指名におけるチーム別入団拒否率(2015年まで)          
チーム名指名数拒否数拒否率順位
巨人391369.21%11
中日365359.59%10
阪神3414412.90%5
横浜3504212.00%6
広島3543911.02%9
ヤクルト3655615.34%3
福岡3714311.59%8
日本ハム3554211.83%7
西武3565415.17%2
ロッテ3655916.16%1
オリックス3444914.24%4
近鉄2655119.25%
楽天9400.00%

球団史上もっとも拒否率が高かったのは9人中5人に拒否された1968年であり、その拒否率は約55.6%だった。

※入団拒否率の推移:
※画像をクリックすると表の全体を表示する。

参考としてグラフも以下に示す。


なお、翌シーズン後などに遅れて入団した選手(有田哲三・池谷公二郎・山根和夫)は例により拒否者に算入していない。

主な入団拒否者のついての解説

▲INDEX
次に、カープへの入団を拒否した主な選手につき、その後の活躍の概略を示す。
例により特記すべき事項については私見による多少の解説を加えていく。

池田重喜

▲INDEX
1965年のドラフト会議で広島カープの15位指名を拒否した投手。
Wikipedia記事へのリンク:池田重喜

1967年に4位指名を受けた大洋ホエールズに入団し、主に中継ぎとして起用され、3年間で計10勝をあげた。1969年には109投球回を投げて防御率2.48(4勝3敗)の好記録も残している。

しかし、ロッテにトレード(1971年)された翌年の1972年に肩を故障。その後は登板機会も激減し1977年には引退。通算成績は13勝12敗。通算防御率は3.53だった。

矢沢正

▲INDEX
1966年の第二次ドラフトでカープの2位指名を拒否した捕手。
Wikipedia記事へのリンク:矢沢正

矢沢選手は同年にドラフト外で巨人に入団しているが、これは広島が交渉権を放棄(※)したためである。
※当時の制度では、球団が獲得を断念して交渉権を放棄した選手は、ドラフト外で自由に交渉し入団させることができた。

ジャイアンツではもっぱら森選手、吉田選手らに告ぐ控え選手として扱われていたが、堀内投手とは相性が良かったらしい。堀内投手が登板する試合ではしばしば先発出場している。空白の一日事件の直後、江川投手のトレーニング・パートナーを勤めていたのも矢沢選手だったそうだ。
Wikipedia記事へのリンク:森祇晶 吉田孝司 堀内恒夫 江川事件 江川卓

矢沢捕手は9年のプロ生活で122本の安打を放ち、通算打率.229を残した。

なお、現役引退後の矢沢選手は日本短波放送の野球解説者などを務めていたが、その後は身をもちくずして暴力団の運転手に転職。1990年には恐喝事件に関わり逮捕されている。

外山義明

▲INDEX
1967年に広島カープの6位指名を拒否した選手。
Wikipedia記事へのリンク:外山義明

1969年にサンケイアトムズ(現在のヤクルトスワローズ)の6位指名を受けた際は入団。ルーキーイヤーの1970年度から主軸投手として起用され、4勝10敗ながら防御率3.38の記録を残している。翌年からは三原監督の意向で投打二刀流となり、「1番・投手」で先発出場したこともあるらしい。2016年に大谷投手が出場するまで40年以上にわたり、これと同様の例は出なかったそうだ。
Wikipedia記事へのリンク:外山義明 大谷翔平

外山選手は1972年にロッテに、1974年には南海(※現在のソフトバンク)に移籍した。

ロッテではほとんど活躍できなかった外山選手だが、1977年には代打として打率3割を記録するなど、南海ではそれなりの活躍を残した。1978年のオフに引退するまで約9年のプロ生活で、外山選手は投手として通算9勝22敗の戦績を残し、防御率3.50を記録したほか、打者としても通算85安打を放ち、打率.265を残している。

稲葉光雄

▲INDEX
1968年に広島東洋カープの6位指名を拒否した投手。所属していた日本軽金属では児玉好弘選手の控え投手だったが、将来性を買われて指名されたらしい。1970年には大昭和製紙の補強選手として出場し、都市対抗野球で同チームの優勝に貢献している。
Wikipedia記事へのリンク:稲葉光雄 児玉好弘

1970年に中日ドラゴンズの2位指名を受けて入団すると、初年度(1971年度)から頭角を現し6勝をあげた。投球回こそ68回にとどまるものの、この年の防御率は1.06と素晴らしいものだったらしい。翌1972年にはシーズン20勝をマークしている。

1973~1975年のシーズンはやや低迷していたものの、1977年に阪急ブレーブスに移籍してからは調子を取り戻して17勝をあげ、阪急のエースナンバー(※)にふさわしい活躍を残した。
※稲葉投手はルーキーイヤーから背番号18を与えられているが、中日ではエースナンバーは杉下投手に由来する20であった。
Wikipedia記事へのリンク:杉下茂

稲葉投手は1984年に引退するまでの通算で104勝80敗の戦績を残し、防御率3.44の数値を残している。セ・リーグ時代の稲葉投手は巨人キラーとしても知られており、王選手・長島選手の双方が抑え込まれて(※)いた。巨人戦の通算成績は13勝9敗である。獲得にこそ失敗したものの、1968年の段階で稲葉投手を指名した広島スカウト陣は慧眼であったといえよう。
※稲葉投手に対する個人成績では、長島選手は打率.177、王選手は.203を記録している。
Wikipedia記事へのリンク:長嶋茂雄 王貞治

ジョー・ルーツ監督による改革がなされて以降、1970年代後半から80年代の広島は、圧倒的に強いというわけではないにせよ、コンスタントに好成績を残し、黄金時代というべき時代を迎えていた。もし稲葉選手が在籍していたら、この時代の広島は、さらに良い戦績を残せていたかも知れない。
Wikipedia記事へのリンク:ジョー・ルーツ

上林成行

▲INDEX
ドラフト指名を3回拒否した選手。広島の9位指名は1968年に拒否している。
Wikipedia記事へのリンク:上林成行

ドラフト拒否回数が2回以上の選手
選手名拒否
藤沢公也4回
三浦健二、上杉成行、浜師勝彦、島谷金二、八塚幸三3回
中村裕二、尾形正巳、山本昌樹、樋江井忠臣、樋野和寿、佐々木辰夫、仲子隆司、小島健郎、太田進、佐藤博、根本俊郎、山根政明、田村忠義、野村茂、岡本光、三好行夫、加藤秀司、長野久義、土居靖典、伊達義城、吉田好伸、江川卓、笠間雄二、長嶺俊一、大町定夫、石井吉左衛門2回

上林選手は1973年に3位指名を受けて近鉄に入団したものの、一軍昇格を果たせないまま1981年に引退した。

高橋英二

▲INDEX
外野手。1969年に広島東洋カープから11位指名を受けるが入団を拒否。
Wikipedia記事へのリンク:高橋英二

翌年のドラフト会議で巨人の6位指名を受けた際は入団したが、1975年に引退するまで一度も一軍の試合に出場することはできなかった。偵察要因として一試合だけ登録された記録が残っている。

萩野友康

▲INDEX
六大学リーグで活躍した慶応大のエース。
Wikipedia記事へのリンク:萩野友康

通算で16勝5敗、防御率1.62の好記録を残し、慶応大初の3連覇に貢献。卒業時のドラフトでは広島の3位指名を拒否して新日鉄八幡に就職し、そのままプロ入りしなかった。

立野政治

▲INDEX
1976年のドラフト会議で、広島東洋カープの4位指名を拒否した選手。
Wikipedia記事へのリンク:立野政治

PL学園を卒業した後は日本楽器(現在のヤマハ)に就職していたが、1980年にドラフト外でヤクルトスワローズに入団した。1981~82年と一軍投手陣の一角としてそれなりの活躍を残し、1982年には一時期先発ローテーション入りも果たしている。

しかし、その後は目立った活躍を残すことができず、1985年限りで現役引退。
通算戦績は9勝5敗7セーブ。通算防御率は3.74だった。

木田勇

▲INDEX
1977年のドラフト会議で広島の1位指名を拒否した投手。2016年現在、広島のドラフト1位指名を拒否した唯一の選手であり、また広島の指名を拒否した最後の選手でもある。
Wikipedia記事へのリンク:木田勇

木田投手は1979年のドラフトで日本ハムに入団。プロ入り初年度から22勝(8敗)をあげ、最多勝のタイトルを獲得。防御率2.28で最優秀防御率のタイトルも獲得し、新人王とMVPを同時受賞した。この年の最多奪三振を記録したのも木田投手である。

木田投手は2年目以降は伸び悩み、平凡な成績しか残せなくなる。主力としていたパームボールは肩への負担が大きく、初年度の登板が過多であったこともあって、速球の球速が落ちてたことにより武器としていた緩急の投げわけが通用しなくなったのが原因であるらしい。

通算成績は60勝71敗。通算防御率は4.23。生涯通算の成績は比較的平凡なものである。

しかし木田投手は、たった1年だけではあるとはいえ伝説的な活躍を残したことは疑いようもない。1978年の広島は首位と5ゲーム差の3位であった。この年、木田投手が「伝説」を残していれば、あるいはカープは優勝を果たしていたかも知れない。

終わりに

▲INDEX
今年のカープは強い。この記事を執筆している8月10日の段階で2位巨人と5.5ゲーム差の首位に立っている。

たしかに2013年に15年連続のBクラスを脱出した頃から、チーム状態はかなり改善されてはいた。去年もクライマックスシーズンへの出場は逃がしたものの、3位阪神との差はわずかに0.5ゲームに過ぎなかった。首位とのゲーム差だけでいうなら、2013年は17ゲーム差、2014年は7.5ゲーム差、そして2015年は6.5ゲーム差である。今にして思えばトップとの差は着実に縮まってきてはいたのである。

広島は1991年以来リーグ優勝を果たしていない。2016年8月の段階で、カープは12球団で最もリーグ優勝から遠ざかっている球団であり、「最後に優勝したのはいつだっけ?」は広島ファンに対するタブーでもある。

しかし、今年の広島は強い。8月上旬の段階での5.5ゲーム差は、もちろん安全圏とは到底いえる数字ではないが、決して狭い差というわけでもない。むろん巨人をはじめとする他球団も必死に追い上げはするだろう。しかし、広島の四半世紀ぶりのリーグ優勝はかなり現実味を帯びてきてはいるのである。

次回予告

▲INDEX
次回は2015年のパ・リーグ5位、神戸オリックス・バファローズについて記述する。

例により、拒否率の計算に使用したファイルは別サイトにアップロードされている。必要であればこちらのリンクからダウンロードしていただきたい。

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