記事一覧

入団拒否率にみるプロ野球(File7:西武編)

このエントリーはドラフトにおける指名拒否をテーマとする記事の第7回目である。全部で12球団について書く予定なので、これでちょうど折り返し地点に入ったことになる。


今回は前年度(2015年度)パリーグ4位の西武ライオンズについて書く。



目次

▲PAGE TOP
 ・指名/拒否のリスト
 ・育成選手
 ・データの比較・分析
 ・主な入団拒否者についての解説
 ・終わりに
 ・次回予告

指名/拒否のリスト

▲INDEX
例により、まず指名/拒否のリストを示す。この球団は1971年以前は西鉄ライオンズ、1972~76年は太平洋クラブライオンズ、1977年のシーズンのみはクラウンライターライオンズと呼ばれており、西武グループに買収され西武ライオンズと呼ばれるようになったのは1978年以降である。

なお、2008年から球団の正式名称は県名を冠する埼玉西武ライオンズに変わっているが、もともと「西武」自体も西武州(※)を意味する地名であるという点で多少の違和感を覚えなくもない。が、いずれにせよリストは球団名の変更に関係なく一つの表にまとめてある。
※東京都・埼玉県に相当する地域をかつては「武蔵国」ないし「武州」と呼んだ。

例により下記リストはWikipediaのドラフトに関する各年の記事をまとめて表にしたものであり、もちろん各選手名はWikipediaへのリンクになっている。Wikipedia側で同名の記事が作成されている場合には別タブで詳細な記事を読むことができるだろう。

西暦1位指名2位指名3位指名4位指名5位指名6位指名7位指名8位指名9位指名10位以下
1965浜村孝吉岡宣男三浦健二江本孟紀田中辰次安友定吉吉原勉久木田正少弐克也
展開する
1966(一次)岡村佳典柳田俊郎甲斐和雄村上公康田中武小野泰敏大津秀美村上利春玉国光男内藤久
1966(二次)荒武康博塩沢誠清水正輝斎藤正人
1967河原明東田正義竹之内雅後藤清辻原幸雄長嶺俊一山田智千牧重見黒木政次
展開する
1968東尾修乗替寿好宇佐美和阿部良男春日一平稲津憲司水本信雄川野雄一大田卓司
展開する
1969泉沢彰三輪悟阪口忠昭西島正之片岡旭山本秀樹花田敏郎柳田豊上薄淳一
1970高橋二三伊原春植豊倉孝治永田哲也米山哲夫青木政美小松時男塩月勝義菅豊
1971吉田好伸柳俊之永尾泰憲若菜嘉晴豊田憲司望月彦男児玉正三斎藤輝美大屋好正
1972中島弘美山口富夫真弓明信久木山亮上林成行加藤敏彦中川信秀貞山健源待井昇金城致勲
1973山村善則楠城徹鈴木治彦平田恒夫笠間雄二大町定夫登記欣也松原正義
1974田村忠義西田隆広吉本博松岡高信春日祥之川村博昭
1975古賀正明糸数勝彦大屋好正加倉一馬木村広池田弘
1976立花義家徳山文宗弓岡敬二坂田松一米沢馨山村勝彦
1977江川卓山本隆造浜本龍治慶元秀章良川昌美山中重信
1978森繁和柴田保光山川猛黒原祐二
1979鴻野淳基田鎖博美大石友好蓬莱昭彦
1980石毛宏典岡村隆則杉本正安部理
1981伊東勤金森栄治小田真也串原泰夫藤高俊彦工藤公康
1982野口裕美笘篠誠治石井毅村井一男成田幸洋後藤明美
1983渡辺久信辻発彦青山道雄川村一明仲田秀司
1984大久保博田辺徳雄高山郁夫
1985清原和博山野和明原口哲也森博幸岡田展和横田久則
1986森山良二中村日出小川宗直山本勝則亀井猛斗山尾伸一
1987鈴木健上田浩明城土大二加世田美前田俊郎上中吉成
1988渡辺智男石井丈裕垣内哲也青野信二小久保浩
1989潮崎哲也鈴木哲大塚孝二宮地克彦佐伯秀喜北原泰二
1990長見賢司奈良原浩犬伏稔昌親富祖弘内山智之
1991竹下潤新谷博熊澤当緒松田和哉神野信也千原淳弘渡辺孝男日月哲史蒲谷和茂
1992杉山賢人前田勝宏豊田清黒田哲史坂本竜一田原晃司石井伸幸
1993石井貴山田潤松井和夫尾山敦白鳥浩徳
1994富岡久貴小関竜也西口文也高木浩之寺本比呂山田和幸
1995高木大成大友進小石澤浄岸川雄二原井和也
1996玉野宏昌森慎二谷中真二和田一浩馬渕隆雄青木和義古屋剛
1997安藤正則佐藤友紀鳥谷部健土肥義弘大島寛芝崎和広平良幸一
1998松坂大輔赤田将吾星野智樹柴田博之
1999高山久眞山龍大島裕行猪爪義治貝塚政秀青木勇人後藤光貴
2000大沼幸二三井浩二帆足和幸佐藤友亮中島裕之野田浩輔水田圭介福井強
2001細川亨 中村剛也栗山巧竹内和也
2002後藤武敏 長田秀一 小野寺力春日伸介上本達之
2003山崎敏 黒瀬春樹松川誉弘松坂健太岡本篤志佐藤隆彦杉山春樹
2004涌井秀章片岡易之山岸穣星秀和
2005(社)松永浩典 吉見太一西川純司山本歩
2005(高)炭谷銀仁田沢由哉田中靖洋
2006(社)岸孝之 山本淳原拓也岩崎哲也大崎雄太
2006(高)木村文和朱大衛
2007(社)平野将光藤原良平
2007(高)(剥奪)(剥奪)武隈祥太梅田尚通中田祥多斉藤彰吾
2008中崎雄太野上亮磨浅村栄斗坂田遼岳野竜也宮田和希
2009菊池雄星美沢将岩尾利弘石川貢松下建太岡本洋介
2010大石達也牧田和久秋山翔吾前川恭兵林崎遼熊代聖人
2011十亀剣小石博孝駒月仁人永江恭平田代将太
2012増田達至相内誠金子侑司高橋朋己佐藤勇
2013森友哉山川穂高豊田拓矢金子一輝山口嵩之岡田雅利福倉健太
2014高橋光成佐野泰雄外崎修汰玉村祐典山田遥楓
2015多和田真川越誠司野田昇吾大瀧愛斗南川忠亮本田圭佑呉念庭國場翼藤田航生松本直晃

凡例は以下のとおりである。
凡例
白色指名に応じ入団した選手下線逆指名による入団選手
淡黄色シーズン後に入団した選手灰色 入団を拒否した選手

なお、ドラフト制度の最初期には、指名した選手の交渉権を球団の側から放棄する例も稀にみられたらしい。しかし、これらのケースは入団を拒否されたためになされた交渉権放棄と区別することが難しい。そこで、やむをえずこういった事例についても入団拒否に含めている。
※たとえば2014年に中日は育成1位指名の佐藤雄偉知選手の交渉権を放棄したが、これは「入団拒否の結果として交渉権を放棄」したケースである。
 参考記事: なぜ…中日 育成ドラ1の交渉権を放棄(Sponichi Annex)


育成選手

▲INDEX
次に、育成指名のリストを示す。

西暦1位指名2位指名3位指名4位指名5位指名6位指名7位指名8位指名9位指名10位以下
2005
2006
2007
2008
2009
2010
2011藤澤亨明
2012水口大地
2013
2014戸川大輔
2015

これまでライオンズが育成指名をした選手は3名のみであり、これは日本ハムに次いで2番目に少ない(※)。
※日本ハムファイターズはそもそも育成指名自体を行ったことがない。

育成選手の指名数(2015年までの累計)
巨人   51横浜   14ロッテ   20福岡   42
中日18広島16オリックス8日本ハム0
阪神10ヤクルト12楽天14西武3

2016年現在、西武の育成指名を拒否した選手は存在しない。

データの比較・分析

▲INDEX
ライオンズはドラフト会議において累計356名を指名し、うち54名に入団を拒否されている。拒否率は15.17%で、これは楽天を除く11球団のうち2番目に高い数字である。これはやはりドラフト制度の黎明期に多くの選手から入団を拒絶されたことが大きい。特に制度創設直後の1965年には指名した16人中13人に入団を拒否されてしまっている。

もちろんライオンズも、他の球団同様1975年の半ば頃からは入団を拒否されることが少なくなっている。特に1978年に経営母体が西武グループに変更されて以降は入団拒否が激減した。西武時代のライオンズは、江川選手を含めても2名にしか入団を拒否されていない。
Wikipedia記事へのリンク:江川卓 松田恒次

ドラフト指名におけるチーム別入団拒否率(2015年まで)          
チーム名指名数拒否数拒否率順位
巨人391369.21%11
中日365359.59%10
阪神3414412.90%5
横浜3504212.00%6
広島3543911.02%9
ヤクルト3655615.34%3
福岡3714311.59%8
日本ハム3554211.83%7
西武3565415.17%2
ロッテ3655916.16%1
オリックス3444914.24%4
近鉄2655119.25%
楽天9400.00%

なお球団史上もっとも拒否率が高かったのは上述の1965年で、その拒否率は81.25%である。

※入団拒否率の推移:
※画像をクリックすると表の全体を表示する。

参考としてグラフも以下に示す。


なお、翌シーズン後などに遅れて入団した選手(秋葉敬三、片岡旭、池田弘、森博幸)は例により拒否者に数えていない。

主な入団拒否者についての解説

▲INDEX
以降の項目では、ライオンズへの入団を拒否した主な選手について、その後の活躍の概略を示す。
また特記すべき事項については私見により多少の解説を加える。

江本孟紀

▲INDEX
1965年に西鉄ライオンズの4位指名を拒否した選手。
Wikipedia記事へのリンク:江本孟紀

法政大学卒業後は熊谷組に入社していたが、1970年にドラフト外で東映フライヤーズに入団した。1971年のシーズンは26試合に登板して0勝4敗、防御率5.04と振るわない成績だったものの、当時南海ホークスの選手兼任監督を努めていた野村克也氏は江本選手の才能を見抜いていたらしい。
Wikipedia記事へのリンク:野村克也

野村氏は同年のオフに江本投手を交換トレードで獲得。期待をかけられた江本氏は奮起し、翌1972年のシーズンから一躍ホークスの主軸投手として活躍するようになった。江本投手はこの年、防御率3.03をマークし16勝を挙げている。

その後、野村氏の更迭に伴うトレードによって1976年からはタイガースに移籍したが、阪神でも江本投手は4年にわたり主軸投手として活躍し、シーズン10勝以上をコンスタントに挙げている。

ただし、江本氏は極端にボークの多い投手として知られている。特に1973年には当時の日本記録である10ボークを記録しており、この記録は、2003年に広島のクリス・ブロックが11ボークを記録するまで破られなかった。また通算24ボークは現在も両リーグ通算の日本記録である。
Wikipedia記事へのリンク:クリス・ブロック

なお、江本選手はコントロールの比較的悪い投手でもあった。暴投・四死球も多く、リーグ最多暴投を5度、リーグ最多与四球・リーグ最多最多与死球をそれぞれ2度記録してしまっている。

それでも江本投手は11年の現役で113勝126敗19セーブの通算成績を残し、通算防御率3.52を記録した。一流とはいえないまでも準一流と呼びうる成績は充分残したといえよう。高橋慶彦選手の連続試合安打記録を33で止めたのも江本投手である。
Wikipedia記事へのリンク:高橋慶彦

もっとも江本選手の活躍は、南海の野村監督に才能を見出されたことが大きな契機となっている。実際、江本選手自身も「野村さんがいなかったら、今の自分は完全に存在していない」と発言している。もし江本選手が1965年の段階でライオンズに入団していたとしても、西鉄ではそれほど大きな活躍を残せず、結局は南海にトレードされてしまっていたかもしれない。

衛藤雅登

▲INDEX
1965年に西鉄ライオンズの11位指名を拒否した選手。
Wikipedia記事へのリンク:衛藤雅登

1972年に日拓観光の社会人チームから日拓ホームフライヤーズ(※)に入団。翌年には広島東洋カープにも移籍したが、一軍戦に出場することができないまま1976年に引退した。
※現在の札幌日本ハムファイターズ。

玉国光男

▲INDEX
1966年春の甲子園大会で宇部商業高校の主将だった選手。
Wikipedia記事へのリンク:玉国光男 山口県立宇部商業高等学校

西鉄の9位指名を拒否した後、社会人選手を経て1975年には母校の野球部の監督に就任。玉国氏が監督を務めていた時代の同校野球部は甲子園大会で劇的な試合を多く残すことで知られており、ミラクル宇部商の愛称でも呼ばれていた。

長嶺俊一

▲INDEX
投手。1967年に西鉄ライオンズの6位指名を拒否した後、電電九州に入社。1969年には阪急ブレーブスの6位指名を受けたが、やはりプロ入りしなかった。
Wikipedia記事へのリンク:長嶺俊一

牧重見

▲INDEX
1967年、西鉄ライオンズの8位指名を拒否してサッポロビールに入社した投手。1970年に5位指名を受けてヤクルトに入団し、1973年には南海ホークスに移籍したが、一度も一軍のマウンドに立つことができないまま同年限りで引退した。

山田久志

▲INDEX
史上最高のサブマリン投手ともいわれる名選手。西武の11位指名は1967年に拒否している。
Wikipedia記事へのリンク:山田久志

翌1968年に阪急の1位指名を受けて入団し、1970年からは主力投手の一角を占めるようになる。特に1975年からは12年連続で開幕投手(※)をつとめてプロ野球記録を作るなど、チームからも厚く信頼されていた。

山田投手はアンダースローの選手としては日本最多記録となる284勝(166敗)を挙げ、通算防御率3.18を記録した。また最多勝のタイトルを3度最優秀防御率のタイトルも2度獲得している。

山田選手は文句なく超一流と呼べるだけの成績を残した選手である。残念ながら入団を拒否されてしまったものの1967年の段階で山田選手に目をつけていた点は慧眼であったとしかいいようがない。もし11位指名で獲得できていたら、間違いなくライオンズ史上最高の「掘り出し物」となっていただろう。

1970年代のライオンズは球団史上最悪の低迷期にあり、1972年には身売りを余儀なくされるほどであった。しかし、もし山田選手の獲得に成功していれば、この時期の低迷はそれほど目立ったものではなくなっていたかも知れない。

西村俊二

▲INDEX
河合楽器に所属していた内野手。1968年に西鉄の12位指名を拒否している。
Wikipedia記事へのリンク:西村俊二

翌1969年に近鉄の3位指名を受けて入団し、1974年ごろからはレギュラーとして内野を固めた。

11年間近鉄に在籍した西村選手は、目立った成績を残せないながらも845試合に出場し、通算342安打を放った。しかし打撃は不得手であり、通算打率は.222にとどまる。もしライオンズに入団していても、それほどの活躍は残せなかったかも知れない。

瀬戸和則

▲INDEX
1968年のドラフト会議で、西鉄ライオンズの13位指名を拒否した選手。
Wikipedia記事へのリンク:瀬戸和則

瀬戸和則は盛岡鉄道管理局への入社後も都市対抗野球大会などで活躍。1973年に広島東洋カープの3位指名を受けて入団したが、残念ながらプロの一軍では1勝もあげることができなかった。瀬戸選手は主に中継ぎとして19試合に登板し、通算成績は0勝1敗。通算防御率として6.0という数字が残っている。

片岡旭

▲INDEX
クラレ岡山に所属していた捕手。現在は片岡新之介と改名している。
Wikipedia記事へのリンク:片岡新之介

ライオンズによる1968年の15位指名は拒否したが、1969年に改めて5位指名を受けると入団を承諾(※)。
(※ただし、1970年のシーズンはクラレ岡山でプレイすることを条件としていたらしい)

ライオンズでは宮寺選手と激しいポジション争いを繰り広げながら、かなりの試合に出場していたが、1975年のシーズンではルーキーの楠城選手にポジションを奪われ出場試合数が激減、同年に阪神にトレードされた。
Wikipedia記事へのリンク:宮寺勝利 楠城徹

移籍先のタイガースや、1980年にトレードされた阪急でも、捕手陣の一翼として片岡選手はかなりの試合に出場している。通算14年のプロ生活で放った安打は344本。通算打率は.239だった。

塩月勝義

▲INDEX
1970年、西鉄ライオンズの8位指名を拒否した投手。
Wikipedia記事へのリンク:塩月勝義

1974年、読売ジャイアンツの4位指名を受けて入団するも、プロの一軍ではほとんど活躍できなかった。通算9試合に登板、13投球回を投げて0勝0敗。通算防御率は4.85だった。

吉田好伸

▲INDEX
1972年に西鉄への入団を拒否した投手。ライオンズへの1位指名を拒否した最初の選手でもある。丸善石油1(現在のコスモ石油)に残留し、そのままプロ入りしなかった。

この年の西鉄は1位指名から3位指名の選手に入団を拒否される最悪のドラフトになってしまった。

永尾泰憲

▲INDEX
1973に西鉄の3位指名を拒否した選手。翌年にヤクルトの1位指名を受けて入団した。
Wikipedia記事へのリンク:永尾泰憲

主に内野のユーティリティ・プレイヤーとして活躍し、近鉄に移籍後の1978年には100安打を放ち、キャリアハイの打率.310を記録している。1982年には阪神にも移籍し、主に代打として活躍した。

吉田選手は15年のプロ生活で610安打を放ち、通算打率.258の記録を残している。

大屋好正

▲INDEX
1971年に西鉄の9位指名を拒否した選手。5年後に再びライオンズ(太平洋クラブ)の3位指名を受け入団した。
Wikipedia記事へのリンク:大屋好正

1978年に20試合に登板して1勝3敗、防御率4.83の記録を残すが、一軍戦に出場したのはこの年のみである。

上林成行

▲INDEX
ドラフト指名を3度拒否した選手。拒否回数は通算2位。ライオンズの5位指名は1972年に拒否している。
Wikipedia記事へのリンク:上林成行

ドラフト拒否回数が2回以上の選手
選手名拒否
藤沢公也4回
三浦健二、上杉成行、浜師勝彦、島谷金二、八塚幸三3回
中村裕二、尾形正巳、山本昌樹、樋江井忠臣、樋野和寿、佐々木辰夫、仲子隆司、小島健郎、太田進、佐藤博、根本俊郎、山根政明、田村忠義、野村茂、岡本光、三好行夫、加藤秀司、長野久義、土居靖典、伊達義城、吉田好伸、江川卓、笠間雄二、長嶺俊一、大町定夫、石井吉左衛門2回

最終的に3位指名を受けて1973年に近鉄に入団したが、一度も1軍昇格を果たすことなく1981年に引退した。

平田恒雄

▲INDEX
1973年にライオンズの4位指名を拒否した選手。
Wikipedia記事へのリンク:平田恒雄

1978年に4位指名を受けて中日に入団するが、1度も一軍戦で登板しないまま外野手に転向。1981年からは代打や守備固めの要員として起用されるものの、目だった活躍のないまま1985年に引退。通算安打数は16本。通算打率として.211の数字を残している。

笠間雄二

▲INDEX
1973年にライオンズの5位指名を拒否した捕手。1974年には阪急ブレーブスの3位指名も断っている。
Wikipedia記事へのリンク:笠間雄二

1976年に6位指名を受けて巨人に入団したものの、山倉捕手とのポジション争いに敗れたことにより正捕手となることができなかった。1980年にトレードされたが、移籍先の阪急でもやはり出場機会に恵まれず翌1981年には阪神に移籍した。
Wikipedia記事へのリンク:山倉和博

阪神では1983年に正捕手として活躍し、規定打席に到達しての.271を打つも、その後は山川捕手・木戸捕手の台頭によりポジションを奪われ引退。通算安打数は198本、通算打率は.236だった。
Wikipedia記事へのリンク:山川猛 木戸克彦

大町定夫

▲INDEX
緩急と制球力で勝負するタイプの下手投げ投手。1973年にライオンズの6位指名を拒否し、1975年にもロッテの2位指名を拒否している。極端なスローボールが持ち味の、いぶし銀の選手だったらしい。
Wikipedia記事へのリンク:大町定夫

1980年にドラフト外で阪神に入団し、主に中継ぎ・抑えとして活躍した。1981年には50試合に登板し、79投球回を投げて防御率1.91、7勝1敗8セーブという好成績を残している。

しかし、1983年頃からはセリーグの打者に攻略されるようになり、同年の春には先発として起用されたものの結果を残せなかった。翌年には投球回数も減少し、入団からわずか4年で現役引退した。なお、現役時代の背番号は18だが、この番号は阪神ではエースナンバーとして特別視されているわけではないようである。

登記欣也

▲INDEX
1973年にライオンズの7位指名を拒否した投手。
Wikipedia記事へのリンク:登記欣也

その後、神戸製鋼の主力投手として社会人野球で活躍し、1978年に近鉄バファローズの1位指名を受けて入団。しかし、プロの1軍では1試合しか登板できず、その試合でも3失点を喫して降板したため、通算戦績としては0勝0敗、通算防御率は27.00という数値が残っている。

田村忠義

▲INDEX
1974年にライオンズの1位指名を拒否した下手投げの投手。翌年にもヤクルトの2位指名に応じず、結局プロ入りしなかった。

弓岡敬二郎

▲INDEX
1976年にライオンズの3位指名を拒否した遊撃手。1980年に阪急からドラフト3位で指名を受け入団した。
Wikipedia記事へのリンク:弓岡敬二郎

ルーキーイヤーの1981年、当時7年連続でダイヤモンドグラブ賞を獲得していた大橋選手からポジションを奪うかたちで遊撃手に定着し、全試合出場を果たす。その後も8年にわたってショートのレギュラーとして活躍した。1984年には打率3割4厘の好成績を残している。
Wikipedia記事へのリンク:大橋穣

11年の現役での通算安打数は807本。通算打率.257を残し、ゴールデングラブ賞も2度獲得している。現在は独立リーグの一つである四国アイランドリーグplusの、愛媛マンダリンパイレーツの監督を務めているらしい。
Wikipedia記事へのリンク:四国アイランドリーグplus 愛媛マンダリンパイレーツ

もっとも当時ライオンズのショートには後に阪神で活躍した真弓選手がおり、1978年オフに真弓選手がトレードされた後も、1981年には石毛選手が入団する。そのため、弓岡選手は1976年の段階で西武に入団していてもそれほどの活躍は残せなかったかもしれない。
Wikipedia記事へのリンク:真弓明信 石毛宏典

江川卓

▲INDEX
甲子園で未曾有の活躍を残し怪物のニックネームで呼ばれた投手。阪急の1位指名を拒否して法政大に進学したが、六大学リーグでも当然のようにエース投手として活躍し、連盟通算2位の47勝をあげ、連盟記録の17完封を達成し、443奪三振を奪って当時の連盟記録を更新するなど数多くの記録を残した。
Wikipedia記事へのリンク:江川卓

1977年のドラフトで江川選手は巨人入りの希望を表明していたが、当時のクラウンライター・ライオンズは江川選手を1位で強行指名した。当時集客に苦しんでいた江川投手を集客の目玉とする狙いがあったとされている。江川投手は九州は遠いという理由で入団を拒否したが、これが後に悪名高い空白の一日事件(江川事件)の一因となる。
Wikipedia記事へのリンク:江川事件

その後、クラウンライターから球団を買収した西武グループが本拠地を埼玉県に移したため、ライオンズは関東圏から遠い球団ではなくなったが、それでもやはり江川投手は入団を拒否した。2016年現在、江川投手はライオンズの一位指名を拒否した最後の選手でもある。

直後に起きた悪名高い「空白の一日」事件については、前回のエントリーで紹介しているので省略するが、江川投手のドラフトを巡る問題は球界に非常に大きな禍根を残している

江川選手は9年間の現役で、135勝72敗の戦績を残し、通算防御率.302をマークした。最多勝のタイトルを2度最優秀防御率のタイトルを1度獲得している。もし江川選手が在籍していれば黄金時代の西武においても相当の活躍を残せていただろう。

江川選手については、戦力を云々する以前に球界全体のイメージに与えた悪影響のほうが非常に大きい。正直、素直に西武に入団してさえいればこんなことにならなかったのにと評さざるを得ない。

藤高俊彦

▲INDEX
1981年に西武の5位指名を拒否した選手。当初からプロ入り拒否を明言しており言葉どおり入団しなかった。
Wikipedia記事へのリンク:藤高俊彦

なお、上述の江川投手が指名されたのはクラウンライター時代のことなので、藤高選手は西武のドラフト指名を拒否した最初の選手であり、2016年現在、ライオンズの指名を拒否した最後の選手でもある。

最後に

▲INDEX
上述のように九州時代末期のライオンズは経営難に苦しむ弱小球団だった。しかし、1978年に経営母体が西武グループに変わり黄金時代を築くようになると入団拒否も激減するようになった。埼玉県民である筆者にとっては西武は地元の球団である。しかし、筆者はあまり西武の黄金時代にいい印象は持っていない。

西武の黄金時代は、当時最強の資金力を誇っていた西武グループのバックアップに拠って築きあげられたところが大きいと考えているからである。つまり、最強のファンの応援によって強い球団になったわけではなく、最強のスポンサーによって強い球団になったにすぎないのである。

バブル期の西武グループには金がうなっていた。オーナーの堤義明氏は、総資産額で世界一位とされたこともあるほどである。その資金力を生かしてプリンスホテルなどのグループ会社に優秀な選手を囲い込むなど、なりふり構わない補強で作りあげられたのが西武の黄金時代である。所詮はバブルの仇花である。
Wikipedia記事へのリンク:堤義明 プリンスホテル

時代は巡り、バブルははじけ、もはや西武ライオンズもかつてのような金満球団ではなくなった。順位も一昨年は5位、去年は4位と、かつての黄金時代の圧倒的な強さは、いまや面影もない。しかし筆者は西武ライオンズが、本当の意味で強い球団になり、本当の意味での黄金時代をいつか築くことを望んでいる。

次回予告

▲INDEX
次回は2015年のセリーグ4位だった広島東洋カープについて記述する。

拒否率の計算に使用したファイルは例によって別サイトにアップロードされている。
必要であればこちらからダウンロードしていただきたい。

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

非公開コメント