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入団拒否率にみるプロ野球(File6:阪神編)

このエントリーはドラフトにおける指名拒否を主題とする記事の第6回目である。今回は前年度(2015年度)セリーグ3位の阪神タイガースについて書く。


目次

▲PAGE TOP
 ・指名/拒否のリスト
 ・育成選手
 ・データの比較・分析
 ・主な入団拒否者についての解説
 ・特記すべき選手について
 ・終わりに
 ・次回予告

指名/拒否のリスト

▲INDEX
前回までと同様に、まず指名/拒否のリストを示す。阪神タイガースは1935年に結成された歴史の長い球団であり、その球団名も1961年に改められてから一度も変更されていない。

下記のリストは、例によりWikipediaの各年のドラフトに関係する記事をまとめたものである。そのため、欄内の選手名もWikipediaの記事にリンクしている。Wikipedia側でその選手名の記事が作成されている場合には、別タブで詳細な記事を読めるだろう。

西暦1位指名2位指名3位指名4位指名5位指名6位指名7位指名8位指名9位指名10位以下
1965石床幹雄藤田平北角富士久野剛司石井満岡村晃松原保雄下田典隆井石裕也
1966(一次)江夏豊平山英雄木村昭夫大竹勇治奥田敏輝中山孝一宮井信雄石井隆野田英二大原和男
1966(二次)西村公一大倉英貴杉政忠雄伊藤博昭
1967野上俊夫吉良修一林田真人坂本義雄桑野議原秀樹西川寛治川口勉川藤幸三藤山悦正
1968田淵幸一植木一智猪狩志郎小島健郎楠橋高幸太田進幡野正秋長崎慶一
1969上田二朗林伸男但田裕介上西博昭佐藤正治樋野和寿池島和彦
1970谷村智博末永正昭楠本秀雄船見信幸才田修小川清一上甲秀男太田良章勝亦治
1971山本和行中村勝広望月充勝山佳一林幸義若林栄作大島忠一谷口善章小笠原正
展開する
1972五月女豊森山正義松永美隆東沢弘新谷守
1973佐野仙好植上健治小竹重行尾藤福繁高橋寛掛布雅之山北芳敬
1974古賀正明工藤一彦笹本信二榊原良行町田公雄松下立美
1975足立義男鍛治舎巧宮田典計中沢泰司深沢恵雄豊平晋一
1976益山性旭続木敏之川辺邦好峯本達雄渡辺純志山田和英
1977伊藤弘利植松精一清家政和池田親興飯田正男豊原経久
1978江川卓枝川正典渡辺長助青木重市
1979岡田彰布赤松一朗北村照文井沢武則
1980中田良弘渡真利克石橋功行山田和英
1981源五郎丸平田勝男月山栄珠福家雅明藤本雄司服部浩一
1982木戸克彦前田耕司田村浩一御子柴進浜田知明浜岡浩幸
1983中西清起池田親興仲田幸司川原新治吉川弘幸岩切英司
1984嶋田章弘佐藤秀明和田豊嶋田宗彦大野久山口重幸
1985遠山昭治中野佐資服部裕昭宮内仁一吉田康夫
1986猪俣隆嶋尾康史八木裕多岐篤司高橋昌也真鍋勝己
1987野田浩司高井一山田勝彦宮脇則昭武内淳二牛山晃一
1988中込伸鶴見信彦金子誠一岩田徹渡辺伸彦鮎川義文
1989葛西稔岡本圭司麦倉洋一古里泰隆新庄剛志吉田浩
1990湯舟敏郎関川浩一山崎一玄田村勤嶋田哲也伴義太郎
1991萩原誠久慈照嘉弓長起浩桧山進次中川申也工藤慎明木立章成中村公信
1992安達智次竹内昌也米村和樹片山大樹山本幸正塩谷和彦山下和輝豊原哲也
1993藪恵一平尾博司高波文一中里鉄也井上貴朗
1994山村宏樹北川博敏田中秀太川尻哲郎矢野正之
1995舩木聖士中ノ瀬幸林純次曽我部直
1996今岡誠関本健太濱中治星山忠弘
1997中谷仁井川慶橋本大祐坪井智哉山岡洋之奥村武博
1998藤川球児金澤健人福原忍部坂俊之寺田祐也
1999的場寛壱吉野誠岡本浩二新井亮司上坂太一窪田淳松田匡司高山智行
2000藤田太陽伊達昌司狩野恵輔赤星憲広加藤隆行沖原佳典藤本敦士梶原康司
2001安藤優也 浅井良 桜井広大中林祐介藤原通喜田剛梶原和隆東辰弥
2002杉山直久 江草仁貴 中村泰広久保田智三東洋林威助田村領平新井智
展開する
2003鳥谷敬 筒井和也 桟原将司小宮山慎庄田隆弘
2004能見篤史 岡崎太一 橋本健太大橋雅法赤松真人高橋勇丞辻本賢人玉置隆水落暢明
2005(社)岩田稔 金村大裕渡辺亮
2005(高)鶴直人若竹竜士前田大和
2006(社)小嶋達也 上園啓史清水誉大城祐二
2006(高)野原将志橋本良平横山龍之
2007(社)白仁田寛石川俊介黒田祐輔
2007(高)高濱卓也森田一成清原大貴
2008蕭一傑柴田講平上本博紀西村憲
2009二神一人藤原正典甲斐雄平秋山拓巳藤川俊介原口文仁
2010榎田大樹一二三慎中谷将大岩本輝荒木郁也
2011伊藤隼太歳内宏明西田直斗伊藤和雄松田遼馬
2012藤浪晋太北條史也田面巧二小豆畑眞金田和之緒方凌介
2013岩貞祐太横田慎太陽川尚将梅野隆太山本翔也岩崎優
2014横山雄哉石崎剛江越大賀守屋功輝植田海
2015高山俊坂本誠志竹安大知望月惇志青柳晃洋板山祐太

凡例は以下のとおりである。
凡例
白色指名に応じ入団した選手下線逆指名による入団選手
淡黄色シーズン後に入団した選手灰色 入団を拒否した選手

なお、ドラフト制度の最初期には、いったん指名した選手の交渉権を球団の側から放棄する例も稀にみられたらしい。しかし、これらの事例を入団を拒否されたためになされた交渉権放棄と判別することは困難である。そこで、やむをえずこういったケースについても入団拒否に含めている。
※たとえば2014年に中日は育成1位指名の佐藤雄偉知選手の交渉権を放棄したが、これは「入団拒否の結果として交渉権を放棄」したケースである。
 参考記事: なぜ…中日 育成ドラ1の交渉権を放棄(Sponichi Annex)


育成選手

▲INDEX
次に、育成指名選手のリストを示す。

西暦1位指名2位指名3位指名4位指名5位指名6位指名7位指名8位指名9位指名10位以下
2005
2006
2007田中慎太
2008野原祐也吉岡興志藤井宏政
2009高田周平田上健一
2010阪口哲也島本浩也穴田真規
2011廣神聖哉
2012
2013
2014
2015

阪神はこれまで10名の選手を育成選手として指名している。他の球団と比較して飛びぬけて少ないわけではないが、これは平均よりもかなり少なめの数である。

育成選手の指名数(2015年までの累計)
巨人   51横浜   14ロッテ   20福岡   42
中日18広島16オリックス8日本ハム0
阪神10ヤクルト12楽天14西武3

なお、これまで阪神の育成指名を拒否した選手は存在しない。

データの比較・分析

▲INDEX
これまで阪神は354名の選手を指名し、うち39名の選手に入団を拒否されている。拒否率12.90%は平均的な値だが、セリーグの球団としてはやや高めの数値といえるかもしれない。

ドラフト指名におけるチーム別入団拒否率(2015年まで)          
チーム名指名数拒否数拒否率順位
巨人391369.21%11
中日365359.59%10
阪神3414412.90%5
横浜3504212.00%6
広島3543911.02%9
ヤクルト3655615.34%3
福岡3714311.59%8
日本ハム3554211.83%7
西武3565415.17%2
ロッテ3655916.16%1
オリックス3444914.24%4
近鉄2655119.25%
楽天9400.00%

なお球団史上もっとも拒否率が高かったのは1965年で、その拒否率は66.7%だった。

※入団拒否率の推移:
※画像をクリックすると表の全体を表示する。

参考としてグラフも以下に示す。


なお、1976年の都市対抗野球の出場後に遅れて入団した深沢恵雄選手や、入団直後にトレードされた扱いの江川卓選手は、拒否率を算出するにあたって拒否者に含めていない。

主な入団拒否者についての解説

▲INDEX
以降の項目では、タイガースへの入団を拒否した主な選手につき、その後の活躍の概略を示す。
また特記すべき事項については私見により多少の解説を加えていく。

北角富士雄

▲INDEX
1965年に阪神タイガースの3位指名を拒否した投手。その翌年、中日ドラゴンズにドラフト外で入団している。出身が愛知県なのでやはり地元球団への愛着が大きかったのかも知れない。
Wikipedia記事へのリンク:北角富士雄

初年度は22試合に登板して6勝3敗、防御率1.17の好成績を残すも、その後は失速。肩の故障もありその後はプロの一軍で登板することはできなかった。

北角選手の通算成績は9勝6敗。通算防御率は3.27だった。

岡村晃

▲INDEX
内野手。大阪府の出身だったが1965年に阪神タイガースの5位指名を拒否して、河合楽器に入社した。
Wikipedia記事へのリンク:岡村晃

岡村選手は1967年にドラフト外で阪急に入団したものの、実質的に一軍の選手として出場することのできないまま1969年に引退している。

中山孝一

▲INDEX
1966年の一次ドラフトで阪神タイガースの6位指名を拒否した投手。
Wikipedia記事へのリンク:中山孝一

1969に入団した南海では速球派の投手としてそれなりの活躍を残し、1975年、1976年にはそれぞれ10勝、12勝をあげたが、その後は肩の故障により低迷。1979年には一度入団を拒否した阪神にも移籍しているが、一勝も挙げることはできなかった。

中山選手の通算戦績は33勝41敗。通算防御率として3.54という数値を残している。

長崎慶一

▲INDEX
1968年に阪神タイガースの8位指名を拒否した選手。大阪府の出身であり、長崎自身も阪神ファンであったが、一般企業への就職を強く希望していた母親の意向を受けて入団を拒否したらしい。
Wikipedia記事へのリンク:長崎慶一

進学した長崎選手は、法政大野球部で主力打者として活躍。東京6大学リーグで2シーズン連続の首位打者を獲得するなどの目覚しい記録を残し、チームのリーグ4連覇に貢献した。大学野球部での活躍でプロからの評価を高めた長崎選手は、卒業後に1位指名を受けて大洋に入団している。

長崎選手はプロでも主軸打者として活躍し、和製ミッキー・マントルとまで呼ばれたらしい。1982年には中日の田尾選手に競り勝って首位打者を獲得している。
Wikipedia記事へのリンク:ミッキー・マントル 田尾安志

もっとも同年の大洋は長崎に首位打者のタイトルを与えるため、10年18日の対中日最終戦で、大洋が田尾に四球を与え続けて打撃をさせなかったらしい。その田尾の出塁を契機として中日がこの試合に勝利し、結果的にリーグ優勝を獲得したため、個人タイトルのためになされた敗退行為でペナントレースの結果を歪めたとの批判が広くなされたそうだ。

が、ともかくもこの年、長崎選手は打率.351を記録しており、いずれにせよ首位打者に相応しい好記録を残したことは間違いがない。ちなみにこの1982年はタイガースも首位に4.5ゲーム差(3位)に迫っていた。もし長崎選手が在籍していたら、この年のタイガースは優勝を果たしていたかも知れない。

1985年に長崎選手は一度は入団を拒否した阪神にも移籍している。阪神では全盛期ほどの活躍は残せなかったにせよ、主に代打として60安打を放つなど、それなりの実績を残してはいる。

長崎選手は現役通算で1168本の安打を放ち、通算打率として.279の記録を残している。

上西博昭

▲INDEX
1969年に開かれた第41回選抜高等学校野球大会(春の甲子園)優勝投手
Wikipedia記事へのリンク:上西博昭

タイガースの4位指名を拒否して中京大学に進学した後、卒業後はプロゴルファーになったらしい。残念ながらゴルファーとして大成することはできなかったようだが、1982年に開かれた第8回ハワイ・パール・オープンに参加した記録(12位タイ)が残っている。
リンク:ハワイ・パール・オープン-第八回記録

高橋寛

▲INDEX
1973年に阪神の5位指名を拒否した捕手。
Wikipedia記事へのリンク:高橋寛

1976年にヤクルトの5位指名を受けて入団したものの、大矢選手、八重樫選手といった名捕手を擁するヤクルト捕手陣の厚い壁に阻まれ、なかなか活躍できないまま1984年に引退した。通算成績は12打数無安打。
Wikipedia記事へのリンク:大矢明彦 八重樫幸雄

もし阪神の指名に応じていれば、田淵選手のトレード後にある程度の活躍を残せていたかも知れない。
Wikipedia記事へのリンク:田淵幸一

古賀正明

▲INDEX
1974年に阪神タイガースの1位指名を拒否した選手。阪神の1位指名を拒否した最初の選手でもある。
Wikipedia記事へのリンク:古賀正明

1975年に太平洋クラブ(ライオンズ)の1位指名を受けて入団し、初年度から11勝を挙げる。この年のタイガースは優勝したジャンアンツに2ゲーム差まで迫っていたので、もし1974年の段階で古賀投手を獲得できていたら、あるいはタイガースは優勝を果たしていたかもしれない。

その後の古賀投手は肘の故障に苦しみ成績を下降させてしまうが、ロッテ、巨人、太平洋と移籍しながら、通算38勝54敗の戦績を残した。通算防御率は4.59。大洋などで活躍した野村投手に続き、全12球団から勝利を獲得した2人目の投手でもある。

足立義男

▲INDEX
1975年に阪神の1位指名を拒否した選手。

これにより阪神は2年連続で1位指名の選手に入団を拒否されたことになるが、その後は現在に至るまで40年以上にわたり1位指名選手の獲得に成功している。よって足立選手は阪神の1位指名を拒否した最後の選手でもある。
※1978年に1位指名を受けた江川投手については一応入団したものとみなす。

鍛治舎巧

▲INDEX
1975年に阪神の2位指名を拒否した選手。これにより、この年の阪神は1位・2位指名選手の獲得に揃って失敗したことになる。なお「鍛治舎」(かじしゃ)が苗字で、「巧」が名前である。
Wikipedia記事へのリンク:鍛治舎巧

松下電器(現在のパナソニック)に残留した鍛冶舎選手は、1985~1992年、1998年~2010年にはNHKの野球解説者として高校野球の実況放送に携わったことでも知られているほか、パナソニックの専務役員として労政部長を務めていた当時に1万人のリストラを断行した戦犯とされ大きな批判を浴びた人物でもある。

パナソニックの退社後、2014年からは熊本の秀岳館高等学校の監督に就任。秀岳館は3年以内に甲子園で優勝することを目標にかかげており、同校は今年(2016年)春の甲子園大会ではベスト4進出を果たしている。今夏の熊本予選も突破したようだ。

ただし、秀岳館高校の躍進は地元熊本ではあまり好意的にみられていないらしい。理由は鍛冶舎監督はパナソニックの役員を務めていた当時、リトルリーグの名門チームである大阪の「オール枚方ボーイズ」の監督を務めており、そのチームの選手の多くを大阪から熊本に転出させているためである。

週刊ポスト2016年4月15日号の記事によれば、秀岳館高校のレギュラーの多くは鍛冶舎監督が大阪から連れてきた選手であり、地元熊本の選手はそもそもベンチにすら入っていないそうだ。同校の野球部は高野連では第二大阪代表などと揶揄されているらしい。たしかにこれでは熊本県民が愛着を持って応援する気にならないのも当然であろう。
リンク:週刊ポスト2016年4月15日号の該当記事(Newsポストセブン)

また春の甲子園で秀岳館の選手が「サインを盗む」行為と疑われるような挙動を見せた(※)ことも、一部では批判の対象となっている。サインの複雑化による試合の遅延を避けなければならないこともあって、甲子園大会ではサインを盗む行為は反則とされているためだ。
※2016年3月23日・花咲徳栄戦(動画

この「サイン盗み」の疑惑では鍛冶舎氏も監督として審判から注意を受けている。もちろん監督自身は反則行為を否定しているが、秀岳館のランナーが2塁に出ると打者が途端にフルスイングになるとの証言(※)まであり、依然として不正を疑うものも多い。
※東スポWeb 2016年03月25日記事

この件についてはBussiness Journalが物凄い記事を書いているので紹介したい。(以下引用)
この鍛冶舎氏、知る人ぞ知る元パナソニック専務。中村邦夫相談役が社長時代に労政部長を務め、1万人のクビ切りを断行した。その時リストラされた従業員が大阪市内のビデオ店で放火し、大勢を死なせて死刑判決を受けている。労政部長の後は広報部長に転じ、中村氏にゴマをすり続けて専務(広報担当)にまで出世した御仁である。

役員時代の鍛冶舎氏は、批判記事が出ると、広告をちらつかせながら新聞社や出版社に圧力をかけ、人事にまで介入し、現場の記者からは蛇蝎のごとく嫌われていた。そして、「社内では立場の弱い人にはとことん強く、立場が強い人にはすぐにひれ伏し、言うことをコロコロと変え、自分の世渡りの事しか頭にないため、部下からも軽蔑されていた」(関西財界筋)そうだ。
(中略)
要は、鍛冶舎氏という人物は「野球エリート」として松下電器に入り、徹底したゴマすりと弱い者いじめで出世を遂げたのである。教育の一環である高校野球の指導者になる資格はない人物といえるだろう。
リンク: Bussiness Journalの該当記事

いっそ清々しいまでの罵倒ぶりである。もちろん並べ立てられた悪口のかなりの部分が論拠の定かではない人格非難であるから、この記事を全面的に鵜呑みにするわけにはいかない。さすがにパナソニックのリストラは業績からみて止むを得ない部分もあったし、元社員が起こした放火事件にまで批判を浴びる謂れはないのではないかとも思う。

あるいは、パナソニックのリストラはそれだけ多くの人の怒りを買っていたということなのかもしれない。

山田和英

▲INDEX
イタリア系アメリカ人と日本人のハーフ。1976年に阪神タイガースの6位指名を拒否し、大阪商業大学に進学。大学でもエースとして活躍し、大学卒業後の1980年に阪神に再び4位指名され入団した。
Wikipedia記事へのリンク:山田和英

入団1年目から即戦力として大きく期待されたものの、肩・肘の故障に苦しみプロでは活躍することができなかった。1983年4月に1回を投げて4失点を喫したのが、残っている唯一の一軍登板記録である。

池田親興

▲INDEX
1977年に阪神の4位指名を拒否した選手。
Wikipedia記事へのリンク:池田親興

日産自動車へ入社した後、1983年には改めて阪神の2位指名を受けて入団した。タイガースでは先発陣の一角を任され、敗戦も多いながらも奮闘。1991年に移籍したダイエーでは中継ぎ・抑えとして活躍した。

池田選手は通算12年の現役生活で53勝69敗の戦績を残し、通算防御率4.58を記録している。

特記すべき選手について

▲INDEX
1977年のドラフトを最後に40年近くにわたって阪神のドラフト指名を拒否した選手は現れていない。

しかし、1978年に1位指名を受けた江川卓選手は、形式的には阪神への入団を拒否していないものの、入団直後に本人の希望に沿うかたちでトレードされており、その経緯は実質的には入団拒否に近いものであった。また、1991年に阪神が獲得を検討していた田口壮選手は、タイガーズに指名を断念させるためにドラフト会議に先立って公表した文書があまりにも酷いものであった。

そこで本稿ではこの2選手についても特に記述する。

江川卓

▲INDEX
ノーヒット・ノーラン9回、完全試合2回、甲子園大会における当時の最多奪三振記録などを残した作新学園の超高校級投手。甲子園に出場した名だたる強豪校もほとんど歯が立たなかったらしい。耳が大きく、漫画「怪物くん」の主人公に似ていたため、怪物のニックネームで呼ばれていた。
Wikipedia記事へのリンク:江川卓

1973年に阪急の1位指名を拒否して法政大に進学。大学でも当然のようにエース投手として活躍し、東京六大学リーグでは史上2位の通算47勝を挙げ、リーグ記録の17完封、当時1位の通算443奪三振などの好記録を残している。

1977年、江川選手は大学卒業後の進路として読売ジャイアンツへの入団を希望する旨を表明。しかし、当時の変則ウェーバー方式で1位のくじを引いたクラウンライター・ライオンズが江川を強行指名したためこの希望は叶わなかった。観客動員数の低迷に苦しんでいた球団としては江川選手を集客の目玉にする意図があったとされる。しかし江川選手は九州は遠いという理由で1位指名を再び拒否し、浪人を選択した。

同年秋に、西武グループはクラウンライターから球団を買収し、本拠地を現在の埼玉県所沢市に移転した。これ以降ライオンズは関東の球団となり、江川選手の当初の拒否の理由はなくなったはずだが、やはり江川選手は西武の再交渉に応じず入団しなかった。

ところで、当時の野球協約では「ドラフト会議で交渉権を得た球団は、翌年のドラフト会議の前々日までしか交渉できない」とされていた。そのため読売ジャイアンツはこの既定を「ドラフト会議の前日には西武の交渉権は消滅しているから、江川は自由の身分(※)である」と解釈した。
※当時のドラフト対象選手に江川は含まれていなかった

つまりジャイアンツは「西武の交渉権が消滅してから、次のドラフト会議が開かれるまで1日開いてるから、その1日に限り江川は自由に契約をできる」と言い張ったのである。誰がみても牽強付会の屁理屈だが、巨人軍はこの理屈を押し通して江川との契約締結を決行してしまったのである。これが悪名高い空白の一日事件と呼ばれるものである。

むろん、このような解釈が認められてしまってはドラフト制度は骨抜きにされてしまう。セントラル・リーグの鈴木会長は当然のように巨人の契約は無効であると宣告した。しかし、読売側はこの裁定に抗議して翌日のドラフト会議を欠席した。50年以上にわたるドラフト会議の歴史において、セ・パ両リーグの12球団が揃わなかったのはこのときが最初で最後である。

巨人抜きで行われたドラフト会議では阪神タイガーズが江川の指名権を獲得した。巨人は「全12球団が出席していないドラフト会議は無効」と主張して、日本野球機構の金子コミッショナーに提訴した。オーナーの正力氏は江川との交渉権が認められないならセ・リーグを脱退して新リーグを作るとまで言い張った。
Wikipedia記事へのリンク:金子鋭 正力亨

言うまでもなく、この傲慢ともいえる態度は世論の強い批判を浴びた。巨人軍は紳士たれという球団創設時の理念をかなぐり捨てた姑息な解釈は、多くの巨人ファンの失望も買った。ちなみに筆者の祖父も、この事件を契機に巨人のファンを止めている。

巨人軍の親会社である読売新聞は当初から江川との契約を正当化しようとしていた。空白の1日における江川との契約を報じた夕1978年11月21日夕刊は「江川君、夢が叶った」などという見出しを掲げてさえいた。しかし、もちろん世論は全く納得しなかった。
資料画像:読売新聞昭和53年11月21日夕刊

同年の12月21日に金子コミッショナーは「ドラフト会議の欠席は巨人が勝手に行ったことであり、ドラフト会議の結果はそのまま有効である」と決定したが、その翌日には「江川を一度阪神に入団させたうえで、巨人にトレードさせる形での解決を望む」とする強い要望を提示した。

この要望は巨人のリーグ離脱騒ぎによって来年度の日程も組めない異常事態を収拾するために出されたものだった。巨人に当初の希望通り江川を獲得させることで宥和を図り、リーグ離脱の要望を撤回させようというのである。しかし、この発言は当然のように世論の強い反発を買った。

そもそも新人選手の公式戦開幕前の移籍は野球協約条の禁止事項だった。もちろんドラフト会議で江川選手との交渉権を獲得した阪神も当初は強い反発を示した。阪神の小津球団社長は「江川選手を獲得しても巨人とのトレードには出さない」旨の発言を繰り返した。
Wikipedia記事へのリンク:小津正次郎

しかし、結局のところ阪神はコミッショナーの「要望」に従い和解することになる。1979年1月31日、阪神は江川選手と当時巨人のエースであった小林選手とのトレードを了承した。これにより江川選手は当初の希望通り巨人入りを果たすことになった。
Wikipedia記事へのリンク:小林繁

この江川事件は球界に大きな禍根を残した。それまで品格のある球団だと考えられていた読売ジャイアンツは大きくイメージを悪化させた。それまでの発言を撤回して唐突にトレードを容認した阪神の小津社長も強い批判にさらされた。

もちろん江川選手自身も、当初の身勝手な契約の当事者として多くの野球ファンから蛇蝎のごとく嫌われた。子供の好きなものを並べた1960年代の流行語「巨人・大鵬・卵焼き」の反対に嫌われものをならべ「江川・ピーマン・北の湖」などと揶揄されたりもした。
Wikipedia記事へのリンク:巨人・大鵬・卵焼き 北の湖敏光

江川選手は9年間の現役で、135勝72敗の戦績を残し、通算防御率.302をマークした。また最多勝のタイトルを2度最優秀防御率のタイトルを1度獲得している。

江川投手は選手としては一流の活躍を残したといえる。しかし、一方で江川選手の巨人入団の経緯は最悪であるとしかいいようがないものだった。どんな名選手であれ多くの野球ファンの反感を買い、球団のイメージを著しく低下させてまで獲得する価値があったとは到底思えない。

田口壮

▲INDEX
関西学院大学の主軸として活躍した選手。大学時代に公式戦で123安打を放ち、これは現在でも関西学生野球連盟の通算安打記録として残っている。

1991年のドラフト会議を前にして、阪神タイガースは田口選手の指名を検討していた。しかし、田口選手はこれに対して阪神に行きたくない10ヵ条なる文章を読み上げて阪神への入団拒否を宣言した。
【参考】阪神に行きたくない10ヵ条: 展開する

この文書が話題になったのは何よりもその内容の的確かつ辛辣な罵倒ぶりである。

球団がせこいフロントの二枚舌が酷い選手を大事にしたい球団には入りたいと思わない阪神が日本シリーズで優勝することは、夢にしてもできすぎている、――いくらなんでもここまで言わなくてもいいのではないかと思わせるほどの毒舌が効を奏したのか、結果的に阪神は田口の指名を回避した。

阪神タイガースが最後に日本一に輝いたのは1985年のことである。田口選手が10ヵ条を公表してから27年間が経った現在でも、いまだに阪神は日本シリーズで優勝できていない。そういう意味では、あるいは田口選手の選択は正しかった(※)のかもしれない。
※田口選手は1996年にオリックスで日本一を経験し、渡米後は2006年セントルイス・カージナルス、2008年フィラデルフィア・フィリーズので世界一も経験している。

田口選手は日本球界で通算1219安打を打ち、通算打率.276をマークした。メジャーリーグでも通算382安打を打ち、打率.279の記録を残している。日米通算1601本にとどまり名球界入りこそならなかったが、充分一流といえるだけの成績を残したといえるだろう。

なお上記の江川選手に対する場合と較べ、田口選手に対する阪神ファンの態度は意外に好意的であるように見える。やはり口調こそ辛辣を極めてはいるものの、忌憚のない批判の内容には納得できるところも多かったからではないか。タイガース自体も2001年に田口選手のFA獲得に意欲を見せ、懐の大きさを見せている。

最後に

▲INDEX
田口選手に「阪神に行きたくない10ヵ条」のような文書を突きつけられてしまった阪神タイガースではあるが、その後、野村監督・星野監督の時代を経て、球団経営のありかたはかなり改善されてきたように思える。騒ぎたいだけの馬鹿のようにしか見えないと酷評されていたファンのマナーもだいぶ落ち着いてきているようだ。
Wikipedia記事へのリンク:野村克也 星野仙一

大物選手を大事にしないといわれていた待遇もかなり改善されている。2010年の金本選手(現監督)や、今年(2016)の鳥谷選手のように、パフォーマンスが低下したベテラン選手をなかなかレギュラーから外さずにファンの批判を浴びることも多い。むしろ高齢選手に優しすぎるようにすら見えることがある。
Wikipedia記事へのリンク:金本知憲 鳥谷敬

阪神タイガースは、その観客動員においてトップを争う人気球団である。
現に2009年、2011年の動員数は、あの読売ジャイアンツさえ追い抜いて全球団中1位だった。
画像資料: セリーグ球団の観客動員数の推移

去年(2015年)の動員数は巨人には及ばなかったものの全12球団中の2位をキープしている。
【参考】 12球団の観客動員数(2015年):展開する

タイガースは今のところその人気に相応しいだけの実績を残しているとはいいがたい。しかし、ファンの力は球団の地力である。このチームには常に優勝を狙えるだけの地力があるはずである。

次回予告

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次回は2015年のパリーグ4位だった西武ライオンズについて記述する。筆者の地元である埼玉県の球団である。

なお例により、拒否率の計算に使用したファイルは別サイトにアップロードされている。必要であればこちらからダウンロードしていただきたい。
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