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入団拒否率にみるプロ野球(File5:ロッテ編)

このエントリーはプロ野球におけるドラフト指名の拒否をテーマとする記事の第5回目にあたる。今回は前年度(2015年度)パリーグ3位の千葉ロッテマリーンズについて書こう。



目次

▲PAGE TOP
 ・指名/拒否のリスト
 ・育成選手
 ・データの比較・分析
 ・主な入団拒否者についての解説
 ・終わりに
 ・次回予告

指名/拒否のリスト

▲INDEX
例により、まず指名/拒否のリストから示す。便宜上一つの表にまとめているが、球団名は1968年以前は東京オリオンズ、1969年~1990年はロッテオリオンズ、1991年以降は千葉ロッテマリーンズと変遷している。

なお、下記リストはドラフトに関するWikipediaの各年の記事をまとめたものであり、選手名はそれぞれWikipediaへリンクしている。Wikipedia側でその選手の記事が作成されていれば別タブで詳細な記事を読めるだろう。

西暦1位指名2位指名3位指名4位指名5位指名6位指名7位指名8位指名9位指名10位以下
1965大塚弥寿木樽正明嵯峨野昇塩谷守也簾内政雄真崎勝佐藤元彦広瀬幸司川藤竜之
展開する
1966(一次)園田喜則川畑和人水谷清仁井深均五島長登得津高宏小西克善
1966(二次)八木沢荘岩崎忠義山内健治仲子隆司
1967村田長次岡田光雄島谷金二榊親一藤村正美吉岡邦広中村裕二金子勝美堀田芳信
展開する
1968有藤通世広瀬宰池田信夫土肥健二八塚幸三山口円佐藤敬次三浦健二飯島秀雄
展開する
1969前田康雄小金丸満藤沢公也問矢福雄田中猛夫藤井信行吉田好伸前村泰正
1970樋江井忠浜浦徹中村順二加藤邦彦奥江英幸田中秀雄中山拓郎石井吉左小野徹
1971井上圭一宮脇敏弘田澄男倉持明近藤重雄松田光保橋爪昭二成重春生上田容三
展開する
1972伊達泰司三井雅晴松尾格佐藤博古屋英雄新谷嘉孝
1973佐藤博正小鷹卓也袴田英利浜師勝彦
1974菊村徳用長松純明芦岡俊明若林仁入沢淳石毛宏典
1975田中由郎大町定夫水上善雄立野清広北川裕司中村昭
1976森繁和前川善裕仁科時成坂川重樹伊藤浩
1977袴田英利梅沢義勝広木政人川島正幸佐藤健一川口和久
1978福間納菊地恭一落合博満武藤信二
1979竹本由紀高沢秀昭佐藤和史中居謹蔵
1980愛甲猛武藤一邦欠端光則桃井進
1981井辺康二田子譲治田中忠勝石井宏西村徳文吉岡知毅
1982石川賢柳沼美広長島哲郎中島克介丸山一仁守屋利和
1983比嘉良智田中力長冨浩志岡島厚長利礼治高橋忠一
1984笠原栄一小川博岡部明一横田真之金沢健一伊藤優
1985石田雅彦園川一美森田芳彦古川慎一古賀道人有倉雅史
1986関清和森廣二青柳進佐藤幸彦永野吉成大美健二
1987伊良部秀里見祐輔堀幸一小林茂生山下徳人大村巌
1988前田幸長今野隆裕渡辺英昭初芝清西山一宇平井光親
1989小宮山悟小林昭則鈴木俊雄南渕時高鹿野浩司林博康
1990小池秀郎定詰雅彦五十嵐章吉井英昭池田宇隆榎康弘
1991吉田篤史河本育之丹波健二花島寛己樋口一紀服部文夫市場孝之小林至
1992武藤潤一成本年秀和田孝志干場崇永森岡裕之安藤学
1993加藤高康立川隆史大塚明中山雅行諸積兼司小野晋吾福浦和也
1994大村三郎黒木知宏橋本将信原拓人後藤利幸岸川登俊池野昌之
1995澤井良輔薮田安彦飯田雅司早川健一松本尚樹末広五大天野勇剛大橋晋也
1996清水将海竹清剛治川俣浩明小林宏之小坂誠柳沼強
1997渡辺正人寺村友和藤田宗一礒恒之於保浩己小林亮寛白鳥正樹
1998小林雅英里崎智也川井貴志寺本四郎小島大作
1999高橋薫清水直行戸部浩塀内久雄
2000田中良平加藤康介長崎伸一渡辺俊介青野毅
2001喜多隆志今江敏晃田中充辻俊哉富永旭丸山泰嗣
2002西岡剛浅間敬太神田義英鈴木貴志金澤岳酒井泰志早坂圭介
2003内竜也杉原洋田中雅彦三島輝史成瀬善久藤井宏海
2004久保康友 手嶌智 竹原直隆大松尚逸木興拓哉青松敬鎔
2005(社)根元俊一川崎雄介古谷拓哉相原勝幸
2005(高)柳田将利林啓介末永仁志細谷圭
2006(社)神戸拓光荻野忠寛江口亮輔中郷大樹角中勝也松本幸大
2006(高)大嶺祐太佐藤賢治黒滝将人
2007(社)服部泰卓根本朋久伊藤義弘下敷領悠
2007(高)唐川侑己植松優友阿部和成
2008木村雄太長野久義上野大樹坪井俊樹山本徹矢香月良仁
2009荻野貴司大谷智久大嶺翔太清田育宏
2010伊志嶺翔南昌輝小林敦小池翔大江村直也藤谷周平
2011藤岡貴裕中後悠平鈴木大地益田直也
2012松永昂大川満寛弥田村龍弘加藤翔平
2013石川歩吉田裕太三木亮吉原正平井上晴哉二木康太
2014中村奨吾田中英祐岩下大輝寺嶋寛大香月一也宮崎敦次脇本直人
2015平沢大河関谷亮太成田翔東條大樹原嵩信樂晃史高野圭佑

なお、ドラフト制度の黎明期においては、いったん指名した選手の交渉権を球団の側から放棄する事例も稀にみられたらしい。しかし、これを入団を拒否されたためになされた交渉権放棄と判別することは困難であるため、便宜上、やむをえず入団拒否として扱っている。
※たとえば2014年に中日は育成1位指名の佐藤雄偉知選手の交渉権を放棄したが、これは「入団拒否の結果として交渉権を放棄」したケースである。
 参考記事: なぜ…中日 育成ドラ1の交渉権を放棄(Sponichi Annex)


凡例は以下のとおりである。
凡例
白色指名に応じ入団した選手下線逆指名による入団選手
淡黄色シーズン後に入団した選手灰色 入団を拒否した選手

育成選手

▲INDEX
次に育成指名のリストを示す。
西暦1位指名2位指名3位指名4位指名5位指名6位指名7位指名8位指名9位指名10位以下
2005
2006
2007池田健宮本裕司小林憲幸白川大輔大谷龍次
2008木本幸広鈴江彬角晃多生山裕人西野勇士岡田幸文吉田真史田中崇博
2009山室公志
2010黒沢翔太山口祥吾石田淳也
2011
2012
2013肘井竜蔵
2014
2015大木貴将柿沼友哉

これまで千葉ロッテが指名した育成選手の数は20名であり、指名数は12球団中3位にあたる。やや意外だがロッテは育成指名にかなり積極的な球団であるといえよう。

育成選手の指名数(2015年までの累計)
巨人   51横浜   14ロッテ   20福岡   42
中日18広島16オリックス8日本ハム0
阪神10ヤクルト12楽天14西武3

なお、ロッテの育成指名を拒否した選手は過去に存在しない。

データの比較・分析

▲INDEX
過去のドラフト会議でロッテに指名された選手の数は365名。そのうち59名が入団を拒否したため、拒否率は16.16%となる。この比率は解散した近鉄を除けば全球団のワースト記録にあたり、巨人や中日に比べると2倍近い数値である。やはりこれは球団の「ブランド力」の差が如実にあらわれたということなのかもしれない。

ドラフト指名におけるチーム別入団拒否率(2015年まで)          
チーム名指名数拒否数拒否率順位
巨人391369.21%11
中日365359.59%10
阪神3414412.90%5
横浜3504212.00%6
広島3543911.02%9
ヤクルト3655615.34%3
福岡3714311.59%8
日本ハム3554211.83%7
西武3565415.17%2
ロッテ3655916.16%1
オリックス3444914.24%4
近鉄2655119.25%
楽天9400.00%

なお、球団史上もっとも拒否率が高かったのは66.67%を記録した1970年だった。

※入団拒否率の推移:
※画像をクリックすると表の全体を表示する。

参考としてグラフも以下に示す。


なお、翌シーズン後に遅れて入団した井上圭一選手については、これを拒否者に含めていない。

主な入団拒否者についての解説

▲INDEX
以降の項目では、ロッテへの入団を拒否した主な選手につき、その後の活躍の概略を示す。
また特記すべき事項については私見により多少の解説を加える。

簾内政雄

▲INDEX
1965年に東京オリオンズの5位指名を拒否した投手。1967年にサンケイアトムズの2位指名を受けて入団した後、1971年には72投球回を投げて防御率2.59を残し、キャリアハイの5勝を挙げた。
Wikipedia記事へのリンク:簾内政雄

しかし、その後は目立った活躍を残せず1976年に引退。通算戦績は9勝9敗、通算防御率は4.19だった。

児玉好弘

▲INDEX
投手。1965年に、東京オリオンズの15位指名を拒否した後、1970年にドラフト外で阪急に入団。その翌シーズンには中継ぎの柱として6勝を挙げた。
Wikipedia記事へのリンク:児玉好弘

1972年には防御率2.65をマークし、10勝4敗の好記録を残しているが、その後は失速。生涯通算の戦績は22勝13敗にとどまり、通算防御率は4.23だった。

岡田光雄

▲INDEX
東京オリオンズの2位指名を1967年に拒否した投手。翌年に近鉄の3位指名を受けて入団した。
Wikipedia記事へのリンク:岡田光雄

プロ入り後初のシーズンである1969年には、岡田選手は29試合に登板し9勝9敗の記録を残した。しかし、その後は右肘の故障もあって一軍ではあまり活躍できなかったようだ。生涯通算成績は9勝11敗。通算防御率として3.03という数字が残っている。

島谷金二

▲INDEX
ドラフト指名を3回拒否した選手。東京オリオンズの3位指名も1967年に拒否している。
Wikipedia記事へのリンク:島谷金二

高校時代はショート、実業団ではセカンドを任されていたが、1968年に9位指名を受けて入団した中日ではサードのレギュラーとして活躍。1977年に移籍した阪急でも活躍した。

島谷選手は生涯通算で1514安打を打ち、通算打率.269の記録を残している。また、かなり守備のよい選手でもあったらしくダイヤモンドグラブ賞を4度獲得している。

当時のロッテの内野陣は榎本選手、有籐選手、山崎選手をはじめとしてかなり優秀な選手が揃っており層が厚かった。しかし、ショートのみはなかなか一軍に定着する選手が現れていない。もしこのポジションを島本選手が守っていれば相当に強力な布陣が完成していただろう。
Wikipedia記事へのリンク:榎本喜八 有藤通世 山崎裕之

金子勝美

▲INDEX
筆者の地元である埼玉県の大宮高校のエースピッチャーだった選手。1967年に東京オリオンズの8位指名を拒否し、早稲田大学に進学した。大学入学後は内野手に転向したらしい。
Wikipedia記事へのリンク:金子勝美

金子選手は1971年に4位指名を受け中日に入団した。しかし、故障などの影響で一軍にはなかなか定着できなかったようである。1977年に引退するまでに残した安打数は6本にとどまる。生涯通算打率は.154だった。

八塚幸三

▲INDEX
ドラフト指名を3度拒否した選手のひとり。東京オリオンズの5位指名は1968年に拒否しており、その後もプロ入りすることはなかった。

藤沢公也

▲INDEX
指名入団拒否の日本記録保持者。ロッテオリオンズの3位指名を1969年に拒否した後も入団拒否を繰り返し、1978年に中日に入団するまで通算4回もの指名拒否を行った。
Wikipedia記事へのリンク:藤沢公也

ドラフト拒否回数が2回以上の選手
選手名拒否
藤沢公也4回
三浦健二、上杉成行、浜師勝彦、島谷金二、八塚幸三3回
中村裕二、尾形正巳、山本昌樹、樋江井忠臣、樋野和寿、佐々木辰夫、仲子隆司、小島健郎、太田進、佐藤博、根本俊郎、山根政明、田村忠義、野村茂、岡本光、三好行夫、加藤秀司、長野久義、土居靖典、伊達義城、吉田好伸、江川卓、笠間雄二、長嶺俊一、大町定夫、石井吉左衛門2回

藤沢投手は1979年に13勝を上げ新人王にも選ばれたが、その後は低迷した。生涯戦績は27勝35敗にとどまり、通算防御率は4.23である。

入団まで9年に及ぶ回り道の影響はやはり大きかったのだろう。1969年の段階でロッテに入団していれば、かなりの記録を球史に残せていたかも知れない。

樋江井忠臣

▲INDEX
1970年にロッテの1位指名を初めて拒否した選手。その後1972年にも読売の8位指名を受けるがやはりプロ入りしなかった。

奥江英幸

▲INDEX
1970年にロッテの5位指名を拒否した投手。1972年に大洋ホエールズの指名を受けて入団し、先発に転向した1976年には11勝をあげた(ただしシーズン17敗で最多敗を記録している)
Wikipedia記事へのリンク:奥江英幸

1977年の暮れにトレードされたが、そのトレード先は他ならぬロッテオリオンズだった。奥江選手は一度は拒否したロッテに結局は入団したことになる。

奥江投手はロッテでも先発ローテーションの一角を占め、1980年は自身最高のシーズン13勝を挙げた。生涯通算戦績は53勝62敗。通算防御率は4.56だった。

袴田英利

▲INDEX
1973年にロッテの3位指名を拒否した捕手。1978年にロッテは今度はドラフト1位で再度指名して獲得に成功している。堅実なリードで知られる捕手であり、村田投手のフォークをノーサインで捕球するなど守備力もかなり高かったらしい。
Wikipedia記事へのリンク:袴田英利 村田兆治

打者としては通算519安打を打ち、打率.231を残している。1980年代の中頃に正捕手としてチームを支えた袴田選手の存在がなかったら、この時期のロッテの低迷はさらに悪化していたかもしれない。

浜師勝彦

▲INDEX
指名入団を3回拒否した選手。1972年にロッテの指名を拒否した後、1973~74年にヤクルトの指名を2回連続で拒否している。

石毛宏典

▲INDEX
1974年にロッテの6位指名を拒否しプリンスホテルに入社した選手。同社は西武鉄道グループの子会社であったため、入団拒否の背景には「球界の寝業師」との異名をもつ根本陸夫氏による囲い込みがあったのではないかといわれている。
Wikipedia記事へのリンク:石毛宏典 プリンスホテル プリンスホテル硬式野球部 西武グループ 根本陸夫

1980年に1位指名を受けて西武に入団した石毛選手は、初年度に打率.311を残し新人王になる。新人選手が規定打席に到達したうえで打率3割をマークしたのは、1958年の長島選手以来だったという。

石毛選手はその後もコンスタントな打撃で活躍し、主軸選手の一人としてチームの黄金時代を支えた。通算安打数1833をマークし、通算打率として.283を残した。

もちろんロッテに入団していても相当な活躍ができていたであろう名選手である。当時のロッテは低迷期に落ち入りつつあったが、1974年に石毛選手を獲得できていれば状況はかなり改善していただろう。

大町定夫

▲INDEX
1975年にロッテの2位指名を拒否した投手。1973年には太平洋クラブライオンズの6位指名も拒否していた。
Wikipedia記事へのリンク:大町定夫

当時は珍しくなかった下手投げの投手で、緩急と制球で討ち取っていくタイプの投手だったらしい。大町投手は1980年にドラフト外で阪神に入団し、主に中継ぎ・抑えとして活躍した。翌年には50試合に登板、79投球回を投げて防御率1.91、7勝1敗8セーブの好成績を残している。

しかし、1983年頃からはセリーグの打者に手の内を読まれはじめ、同年春に先発として起用されたものの結果を残すことができなかった。翌年には投球回数も減少し、入団からわずか4年で現役引退した。通算成績は11勝7敗12セーブ、通算防御率は3.38だった。

なお、現役時代の背番号は18だったが、この番号は阪神では特にエースナンバーとされているわけではない。

森繁和

▲INDEX
1976年にロッテの1位指名を拒否した投手。その後、森投手は社会人野球で活躍し、1978年には4球団から1位指名を受けている。
Wikipedia記事へのリンク:森繁和

抽選により入団した西武では初年度から先発の一角を任され、1980~81年には負け数も多いながらもコンスタントに10勝を挙げている。1982年からは中継ぎ・抑えに転向し、1983年には防御率1.48、5勝5敗34セーブの成績を残してリーグ優勝に貢献した。

1984年以降は怪我に苦しみ徐々に投球回数を減らしたものの、森投手は通算で57勝62敗82セーブ、通算防御率3.73の記録を残している。

1982年ごろからロッテは投手力の低下に苦しみ、落合選手やレオン・リー選手を中核とする強力な打線を有しながらも、それ以上の失点を蒙ることにより敗戦することが増えていた。森選手は特に中継ぎ・抑えとして優秀な成績を残した選手である。もし1976年の段階で森投手の獲得に成功していれば、この時期のロッテはもっと良い順位を残せていたかも知れない。
Wikipedia記事へのリンク:落合博満 レオン・リー

前川善裕

▲INDEX
1976年にロッテの2位指名を拒否した外野手。日本鋼管の社会人チームで「四番・ライト」として目覚しい活躍を残し、ホンダの西郷選手より以前にはミスター社会人と呼ばれていた選手でもある。
Wikipedia記事へのリンク:前川善裕 西郷泰之

川口和久

▲INDEX
1977年にロッテの6位指名を拒否した選手。1980年に広島の1位指名を受けて入団し、1993年には先発陣の一角を占める投手として定着。以後1995年に巨人に移籍するまで12年にわたって投手王国広島を支える選手の一人となった。
Wikipedia記事へのリンク:川口和久

川口投手は139勝135敗4セーブの通算成績を残し、通算防御率3.38を記録した。当時の広島には達川光男氏という名捕手がいたこともあったが、それでも通算100勝越えは大記録である。先述のようにロッテは1982年頃から投手陣の低迷に苦しんでいた。もし1977年の段階で川口投手の獲得に成功していれば、状況はかなり改善していただろう。
Wikipedia記事へのリンク:達川光男

菊地恭一

▲INDEX
1978年にロッテの2位指名を拒否した選手。この年の3位指名は後に無類の強打者として活躍した落合選手だった。つまり、この時点では菊池選手は落合選手よりも高い評価を得ていたのである。
Wikipedia記事へのリンク:菊地恭一 落合博満

1981年に大洋の2位指名を受けたときは、菊池選手は「落合さんがあれだけやれるなら」という理由でプロ入りした。しかし菊池選手は結局一軍に定着できず1987年に引退した。通算安打数は7本、通算打率は.156だった。

竹本由紀夫

▲INDEX
新日鉄室蘭のエースとして社会人野球で活躍していた選手。1979年にロッテの1位指名を拒否した。
Wikipedia記事へのリンク:竹本由紀夫

1980年のドラフトでは上記の石毛選手や原選手とともに目玉選手の一人とされ、御三家とまで呼ばれていたが、同年に1位指名を受け入団したヤクルトでは期待に反して一勝もあげることができなかった。わずか4年の現役生活で残した戦績は0勝5敗、通算防御率は4.71だった。

プロ入り後にフォーム改造に失敗し、そのバランスの悪い投球フォームのまま登板させられたことが竹本選手がプロで通用しなかった理由であるとする説もある。1979年の段階でロッテに入団していれば、あるいはもう少し良い結果を残せていたかも知れない。

石井宏

▲INDEX
1981年にロッテの4位指名を拒否した投手。
Wikipedia記事へのリンク:石井宏

石井投手は進学した日本大学でかなりの活躍を残し、ドラフト1位指名を受けて阪急に入団した。しかし、石井選手はプロの一軍では目立った活躍を残すことができなかったらしい。わずか2年で阪急を自由契約になった石井選手は、翌年に入団テストを受けて阪神に移籍したものの、その年限りで引退している。

通算戦績は2勝3敗。通算防御率は6.38だった。

長冨浩志

▲INDEX
1983年にロッテの3位指名を拒否した選手。1985年に1位指名を受けて広島に入団している。
Wikipedia記事へのリンク:長冨浩志

当時の広島は北別府投手をはじめとする強力な投手陣を擁する球団であり、投手王国とまで呼ばれていた。長富選手はプロ入り直後から先発ローテーションを任され、初年度から10勝をあげ新人賞を獲得。その後も主力の一角として広島投手陣を支えた。
Wikipedia記事へのリンク:北別府学

交換トレードによりパリーグに移籍した後も、長富投手は中継ぎとして一定の実績を残した。16年のプロ生活での通算戦績は77勝77敗10セーブ。通算防御率として3.84という数値を残している。

先述のように1980年代のロッテは深刻な投手力の低下に苦しんでいた。長富選手を獲得できていれば、この時期のロッテの投手事情は多少なりとも改善されていただろう。

有倉雅史

▲INDEX
投手。1985年にロッテの6位指名を拒否して進学し、1989年に日本ハムの6位指名を受けて入団した。
Wikipedia記事へのリンク:有倉雅史

有倉投手はプロでは目だった戦績を残すことができず、ダイエー、阪神に移籍した後に1988年に引退した。通算戦績は8勝7敗1セーブ。通算防御率は4.31だった。

西山一宇

▲INDEX
高知高校の剛速球投手として知られていた投手。1988年にロッテの5位指名を拒否してNTT四国に入社した。当時のロッテの監督は高地高校のOBである有藤氏だったが、体力面での不安を理由にプロ入りを拒否した西山選手を説得できなかったらしい。
Wikipedia記事へのリンク:西山一宇

社会人での西山選手は1992年にオリンピック代表選手に選出されるほどの選手だったが、同年に肘を故障したため多くの球団が上位指名を見送り、結局1993年のドラフトでは3位指名を受けて巨人に入団している。

西山投手は3年目の1995年にリリーフ・エースとして活躍。この年5勝7セーブを挙げ、防御率0.55という圧倒的な成績を残した。当時の長島監督はこの年の西山選手を佐々木以上とまで評価している。
Wikipedia記事へのリンク:長島茂雄 佐々木主浩

もっとも、その後の西山投手は制球難に苦しみ、与四球の多さもあって救援失敗を重ね、期待されたほどの成績を残せないシーズンが多かった。それでも1998年には中継ぎの柱として49試合に登板し、80投球回を投げて防御率2.48の好成績を残している。

生涯通算の戦績は24勝18敗12セーブ。通算防御率は4.11。荒れ球に苦しみ、完投能力こそ欠けていたが、球威のあるボールを投げる投手だったらしい。1988年の段階でロッテに入団していれば、あるいは投手として大成していたかも知れない。

小池秀郎

▲INDEX
1990年のドラフト会議で8つもの球団から1位指名された投手。「8球団」という指名競合数はあの野茂英雄投手と並んでの日本記録である。小池選手は当初から「ヤクルト・巨人・西武」以外であれば入団を拒否すると宣言していたのであるから、当初から「どの球団でも行く」と明言していた野茂選手よりも、さらに評価は高かったとさえいえるかも知れない。
Wikipedia記事へのリンク:小池秀郎 野茂英雄

当初の宣言どおり、小池選手はロッテの指名を拒否した。ロッテは一番避けたかった球団とまで言い放ち、松下電器に入社した。このときレポート用紙7枚からなる拒否声明文まで作成したらしい。今にして考えれば酷い話ではある。もちろん、このときの小池投手の姿勢はロッテのファンの怒りを買った。後に小池投手がロッテ戦で投げたときには当然のようにファンからブーイングが上がったという。

小池投手が所属していた亜細亜大学の反応もかなり酷かった。ロッテが当たりくじを引き当てたことが判明した瞬間、亜細亜大学の学生からは悲鳴に似た声さえ上がった。同大野球部の監督はロッテは最も行かせたくない球団と断言した。その後、現在に至るまでロッテは亜細亜大出身の学生を獲得していないところをみると、あるいは当時のことが今でも禍根として残っているのかも知れない。
リンク: 1990年 小池ドラフト (Youtube)

しかし、大学卒業時には極めて高い評価を得ていた小池投手であったが、松下電器に入社した直後に左ひじを故障し、それまでの球威を激減させてしまう。むろんプロからの評価もこれにより大きく低下することになった。

1992年に近鉄の1位指名を受けて入団したものの、やはり故障の影響は大きかった。小池選手は大学卒業時に期待されていたような成績を上げることはできなかった。この点、入団後最初のシーズンで最多勝、最優秀防御率を含むタイトルを総なめにした野茂投手とは対照的であった。

しかしそれでも小池選手は通算で51勝47敗の戦績を残している。1997年には15勝をあげて最多勝のタイトルも獲得した。通算防御率は4.40。50勝越えはやはり準一流と呼べる数値であろう。

1990年代のロッテは最悪に近い低迷期にあった。投手陣には小宮山、黒木、伊良部などそれなりに優秀な選手が揃っていたにもかかわらず、チームとしてはなかなか勝てない時期が続いていた。
Wikipedia記事へのリンク:小宮山悟 黒木知宏 伊良部秀輝

さらに当時のロッテの本拠地であった川崎球場は非常に狭かった。両翼わずか88.4mしかないこの球場は、当時の十二球団の本拠地では最も狭い球場であった。外野スタンドまでの距離が短いため投手は他の球場よりも簡単に本塁打を打たれてしまう。投手が「この球場を本拠地にしたくない」と考えるのは当然だろう。
Wikipedia記事へのリンク:川崎球場

この時期のロッテは特に投手に入団を拒否される例が多いが、その原因の一端はこの川崎球場の狭さにある。川崎球場はスタンドまでの距離が短く、極端に投手が不利な球場だった。ロッテが小池投手に「一番避けたかった球団」と言われてしまったのにも正直なところ無理はない部分はあったのである。

小池選手は大学卒業時点で肘に爆弾を抱えていた。たとえロッテに入団していても、やはり目立った成績を残すことはできなかったのではないかと思う。もう少し穏便に断っていればと思えるところもあるが、指名を断ったこと自体は間違っていなかったのではないか。

大橋晋也

▲INDEX
1995年にロッテの8位指名を受けたものの入団を拒否した選手。トヨタ自動車に入社し社会人野球で活躍した。
Wikipedia記事へのリンク:大橋晋也

長野久義

▲INDEX
2006年に日本ハムの1位指名を拒否していた選手。ロッテは2008年に2位指名したが、本人は巨人への入団を希望していたためやはり拒否された。長野選手はロッテへの指名を拒否した最後の選手でもある。
Wikipedia記事へのリンク:長野久義

プロ入り初年度から打率.288を記録した強打者であり、やや低迷した昨年(2015年)を除いて毎年3割近い打率をキープしている。特に2011年には.316を打ち首位打者のタイトルも獲得している。今年も三割近い打率に戻ってきているようだ。

指名前後のインタビューなどをみるかぎり巨人入りの希望は固く、ロッテに入団していた可能性はなかったと思える。が、もしロッテが長野選手の説得に成功していれば相当な戦力になっていたことは間違いないだろう。上位指名を無駄にしたことについての批判はあるが、果敢な指名で巨人による選手の「囲い込み」を打破した意義は大きかったのではないかと筆者は思う。

終わりに

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前回紹介した巨人が「富める者」の代表であるとするならば、ロッテは圧倒的に「持たざる者」の代表というべき球団である。昨年度の観客動員数は約132万人だった。これはほぼ例年通りの数値ではあるが、近年東北楽天ゴールデンイーグルスが大きく動員数を伸ばしてきたこともあって全球団中の最下位に沈んでいる。

2015年の観客動員数
チーム名累計動員数平均動員数順位
巨人 3,001,187 人42,270 人 1位
阪神 2,878,352 人39,977 人 2位
広島 2,110,266 人29,722 人 4位
中日 2,049,784 人28,469 人 5位
ヤクルト 1,657,511 人23,021 人 9位
DeNA 1,813,800 人25,546 人 7位
ソフトバンク 2,535,877 人35,221 人 3位
日本ハム 1,959,943 人27,221 人 6位
オリックス 1,767,220 人24,890 人 8位
西武 1,616,827 人22,456 人 10位
楽天 1,524,149 人21,467 人 11位
ロッテ 1,322,004 人18,620 人 12位
セ・リーグ 13,510,900 人31,493 人 -
パ・リーグ 10,726,020 人25,002 人 -
合計24,236,920 人28,248 人 -
日本野球機構のホームページから引用。

観客動員数(ホームゲーム・年毎)の推移:

リンク: セリーグのグラフ 両リーグのグラフ 集計用ファイル

もちろんロッテが観客動員数の低迷に苦しんでいるのは今に始まったことではない。かつての川崎球場時代からロッテの観客動員はかなり悪い状態が続いていた。川崎球場時代のロッテではガラガラの球場外野席で客が麻雀をしていたり、子供がキャッチボールをしていたりするのが常態化しており、果ては観客が流しそうめんを流す映像まで残っている。その時代に比べれば動員数もかなりマシになっているといえよう。
リンク: 川崎球場 流しそうめん (Youtube)

ドラフト指名の制度は戦力の均衡を目的に設けられたものであり、それだけにロッテのような「持たざる者」にとっては大きな武器となる制度だ。上述のようにロッテは指名選手に入団を拒否される割合が最も高い球団であった。しかし、現在では指名した選手に入団を拒否される確率自体が大きく低下している。これからもロッテには入団拒否を恐れて委縮することのない積極的な指名を期待したい。

次回予告

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順序に従えば、次回は2015年のセリーグ3位である阪神タイガースについて書くことになるだろう。拒否率の計算に使用したファイルは例により別サイトにアップロードした。もし必要であればこちらからダウンロードしていただきたい。
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